ファルス災厄の夜 CODE DRAKE 0章 元ピドナ軍団長のルートヴィッヒは失脚したという話だったが、ピドナ王宮とは比較にならないまでも豪奢な館は今ではファルスのはずれにあった。周囲はまばらな林に囲まれ、人家はない。真冬のことで雲は厚く、カタリナが馬車を降りると凍りつくような湿った風が通りぬけた。
ルートヴィッヒは硬質な笑みをたたえて彼女を出迎えた。
「本当においでくださるとは、感激ですな、さあ、どうぞ中へ」
「船が出なければ危ないところでしたわ。静かな場所にお住まいですね」 中へ入ったのでホールに声が響いた。召使がカタリナのマントと帽子を受け取る。
「まずは、聖フェルディナント前夜を祝ってワインをあけるのはいかがでしょうか」 ルートヴィッヒは彼女の手をとって案内しようと気取って会釈したが、カタリナはやんわりと拒絶した。
「せっかくですが、ご依頼の品を先に拝見したいと存じます。道すがら従者の方からどれだけ素晴らしい宝か、散々聞かされて気になっていますもので」
ルートヴィッヒは、ごまかすためか過度に楽しそうに笑った。
「困ったやつだ。しかし、落ち着かないお気持ちはわかります。まだ私も、中身を確認しておりませんのでね。では、どうぞ」
そこで二人は二階へとあがっていった。壁には、これもどこから入手したのか不明な古い武器防具が飾ってあって、館全体がなにやら重苦しい空気に包まれている。 ルートヴィッヒは上機嫌で解説をしながら階段を上っていたが、天窓に、がさっと音がした。カラスが飛び立ったのだった。
「この部屋に保管してあります」
彼はドアをあけた。
薄暗い倉庫のような小部屋である。その中央に古めかしいチェストが置かれていた。
大きさはちょうど人が一人入るくらい。一目で同時代のものではないとわかる。その装飾は精巧だが文字はなく、絵だけを見ても意味不明であった。
「古い時代のものですわね」カタリナは慎重に言った。 額に汗がにじんだ。理由はわからないが、今まで感じたことがないくらい、このチェストが恐ろしい。
そんな彼女の心境を知る由もないルートヴィッヒは、自慢の宝へと手を広げた。 「どうぞ、もっと近くでご覧ください。今の、いや、聖王の時代のどこの国にも、このような絵を描く文化は存在しなかったことは分かっています。これは、まさに魔王時代以前の、滅ぼされた王国の遺物ではないかと考えました。失われた古代の文明を眠らせたままにはしておけない・・どうです、貴方なら、この図柄の物語を解読おできになるのでは?」
カタリナはルートヴィッヒの好奇心と何かの企みが混じったような目を見た。
「たしかに、……ナジュ砂漠の近辺で滅びた王国の跡を探索したことはあります。この絵は、周辺の土地の壷にある図に似ていなくもありません。そのまま読み解けば、この図が示すのは魔王による蹂躙が行われたいきさつのようです。そして、この一筆で描かれた最後部分、一筆でというのは循環を意味しているのですが」と、チェストの中央を指差す。「これは、魔王にしたがってあふれ出たアビスの者を、一旦は駆逐した図になっています――チェストの中に封印して」
「おお、そんなことまでもう分かるのですか。では中をあけて見ましょうか。非常に重くて運ぶのには苦労しましたが、鍵は簡単に崩せるはずです」
カタリナは鋭く振りかえった。
「止めて下さい」
「なんですって?」
ルートヴィッヒも傍に控えていた従者数人も驚いた。
カタリナは厳しい表情で言った。
「『一旦は』と申し上げたはずです。ここで『循環』が強調されているのです」
「だから?」 「お分かりにならないの? 開けば魔王の時代が再現されるという警告だわ」
カタリナは自分の心臓の鼓動を聞いた。
そしてルートヴィッヒは笑い出した。
「チェストに収まったアビスの脅威とは、お粗末な話ではないか。魔物が入っていることは予想できる。だがこれだけの木箱にはきっとほんの一匹か二匹、それも、大昔の井戸の底から引き上げたものだ、もう魔物といえど死んで腐っているだろう。……知っておいて貰いたいが、私は未知のものをむやみに恐れる臆病者とは違う。古代に滅ぶ前に封じられ残った最高の力を手に入れられるチャンスかも知れず、しかもアビスで最強の敵さえ倒した貴方がここにいるのだ!」
ルートヴィッヒは鍵に手を伸ばした。
「やめてください、そのようなことを試そうとするのは!」
カタリナはその手をどかせようとしたが従者らに後ろから羽交い締めにされた。
「手を放しなさい!」
そう叫んだときだった。
ルートヴィッヒがカチリと音を立てて鍵を開け、チェストの蓋を押し開けた。
途端に凄まじい風が内部から噴出し、小部屋にあったものが吹き散らされていった。従者らは悲鳴を上げ、ルートヴィッヒも部屋の隅に弾き飛ばされた。カタリナは風に耐えながらチェストに近づき、蓋を閉めようと持ち上げたが、すでにそこからは黒い、密度の濃い煙が床へと流れ出していた。
「…出てくるわ」
カタリナは傍にあった剣を掴んで後ずさった。
同時に煙の下から灰色をした扁平で巨大な生き物が一同を珍しそうに、小さな目で眺めた。そして。
いかにも獲物を見つけたという勢いでルートヴィッヒに襲いかかってきた。
ガシーン!!
カタリナがその触手を剣で受けたが、部屋の後方まで押しやられた。従者の一人は首に噛みつかれ、たちまちのどの半分を抉り取られた。 魔物は数匹いる。ルートヴィッヒは蒼白になりながらも自分も剣を構え、壁によりかかってチェストの内部をのぞきぎょっとした。
それはチェストの内部に通じる、禍禍しき異世界そのものだった。黒い煙は部屋を一巡りして新たな壁を作っており、カタリナが倒した魔物の残骸も少しずつ呑まれていく。
「早く、私が食いとめる間にこの部屋を出るのよ!そして厳重に鍵を!」
ドレスに魔物の返り血を浴びながらカタリナは叫んだ。
ルートヴィッヒは耐えがたい敗北感とともに、一言、謝罪の言葉を口にした。カタリナは肯き、深く息を吸い込んで剣を握りなおした。チェストからは別の、ぬらぬらした、赤黒く細い手が出てくるのが見える。 鈍い金属音が部屋の外側から響いた。ルートヴィッヒはどうにか部屋の外に出て、鍵をかけたらしい。カタリナは黒い煙がずしりと足を重くしていることを知っていた。そして、敵は小型のゴブリンのような姿を完全に現し、カタリナを見て笑うように口の中を見せた。
カタリナは斬りつけたがゴブリンは軽々と飛びのいた。そして跳びながら手の先から飛ばした鋭く大きな爪が、カタリナの顔スレスレの両脇に一瞬のうちに突き立った。 だがかわせたわけではなかったのである。
壁に縫い付けられた右手は激痛にしびれ、もう利かない。
次の爪がきらめく。それが不意に、祝日前夜でにぎわうロアーヌの町の灯りに見えた。口元に小さく笑みがこぼれ、それからカタリナは敵を見据え、唇を噛んだ―――。
ルートヴィッヒの召使のうちには、林を抜けてファルスの町にたどり着いた者も複数いた。町の人々は、発狂したような声に驚いた。通りに飛び出した住民がまだ息のある一人を助け起こしたが、彼は全身を切裂かれ、世界の終りが来る、と言ったのが最期だった。
ほどなく、事情を知らないファルスの町が最初に災厄の犠牲となったが、各国が協力して敵に当たったので、予期したほどの被害が出る前に魔物の殆どはアビスに逃げ去ったように見えた。しかしながらルートヴィッヒの屋敷があった場所に開いたゲートらしきものは、この地に時折黒煙を立ち上らせ、しっかりと根を下ろしている。
ランスの天文学者はロアーヌ王に尋ねられ、次の死食を21年後であろうと答えたという。
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