ランスへ
〜船上で見る星〜
―イスカル川―

  
 早朝ファルスを出発したとき、丘は霧に包まれていた。天文台の荷物を載せた馬車がギシギシときしむ音を立てているのが、なんとも心もとない。ヨハンネスは移動するのが不本意だったし、欲をかいて器具も山ほど持ってきていた。しかし、そんな馬車ではとてもランスまでは持たない。アリエンは少し心配になった。何より、重い荷を運ばされて鼻息の荒い馬がかわいそうだ。

「霧が晴れたらもっと見えるんだけど、もう数キロ行けばイスカル川にぶつかるわ」
 丘を上りきってからオリオールが言った。
「そこに船を手配してあるの。急なことだからちょっとした船なんだけど」
「助かるね、船なら馬を酷使しなくてすむ」
 ヨハンネスがほっとしたように言ったのでアリエンは彼を向いて微笑んだ。
 馬車はさらにきしみながら丘を下った。しばらくすると周囲が明るくなり、イスカル川の河口付近に何隻も船が固まっているのが見えた。それらはすべて漁船らしかった。
「今頃の季節に魚が獲れるの?」アリエンはオリオールに追いついて尋ねた。
「あの様子だと獲れてるみたいよね。本来ならこの時期は漁船は沖に出ているところなのに」
「気候が変動しているんだよ。1月くらい違っている」ヨハンネスが馬車から言った。
「どういうこと?」
「死食の前数年間は、どんどん海水温が下がっていくんだ。特に海洋はその変化が激しいから、魚は海流に乗って北から流れてくる」
「……ファルスのゲートを閉じても異変が止っていないわけね」
 オリオールは冷静にそう言い、頷いた。

 一行は丘を下り、イスカル川に出た。夏の間は河口付近に塩田が出現するが、今は傍の村もすっかり秋の雰囲気であった。潮が引く時刻らしく、何隻かの小型の船は砂浜でつながれていた。
「オリオールさん」
 マネージャーらしき都会的な若者が村から出てきて声をかけた。オリオールも手を振る。
「船が要りようですって?」
「言ったとおり、この川を遡るの。これだけの積荷と私たちを乗せてどんどん走る船が要りようよ」
「お任せを。きっとお気に召します!」
 若者は大きく頷き、後方にいる村の若者数人に合図をした。岸辺の倉庫の陰から、塗装ははげているががっしりした一隻の船が滑り出してきた。中型の材木運搬船で、積荷が多少重くても川底をこすることはないという。
「これでいいわ。早速積荷を移してもらえる?」
 オリオールはてきぱきと指示を出した。マネージャーがあらかじめ頼んでいたので、村人たちはすぐに仕事にとりかかり、ヨハンネスは大事な機器があるので自分も手伝った。
 川の流れは弱く、水底が見えそうな浅さである。アリエンはティリオンを放して休ませてから自分も荷物のほうへ向かった。そのとき。
「君」
 日に焼けた若い男が村から出てきて声をかけた。顔立ちが東方風で長剣を腰に下げた旅装であり、なぜかティリオンの様子を真剣に見詰めている。アリエンは少し不安になって近づいた。
「何ですか」
「君の馬は足を痛めているね。違う?」
「ええ、戦闘中に魔物につかまれて、捻ったらしいわ。簡単な処置はしてもらったけれど」
「しばらくは船に乗せて休ませた方がいい。それからトレーニングのために水中を歩かせるといいよ」
 そう言って、彼はティリオンに近づき、優しく背中をなで、それからすべての足を念入りに調べた。処置は正しいし回復しつつある、とだけ彼は言った。名乗りもせずどこの人間とも知れないが、少なくとも馬を扱い慣れている専門家の態度だ。アリエンは、全く抵抗しないティリオンを見て、彼の言うとおりにしようと思った。
 やがて潮がかわって一行は船に乗り込んだ。アリエンは再度礼を言おうと、あの馬好きの若者を探したがもう近くに姿は見当たらなかった。
「行程は2日弱。天文台までヨハンネス氏を送り届けるのがまずは目的ね」
 無駄に豪華な夕食のとき、オリオールは説明した。
「その後はわたしはファルスへ戻り、オリオールはウィルミントンに向かうのね」
「それが、アリエン、ランスで寄り道することになったわ」
「ふうん? 何をするの?」
「まさか、柄にもなく聖王廟の試練に挑むというんじゃあるまいね?」
 ヨハンネスが茶化すとオリオールは手元に持っていた書類で天文学者の頭をどついた。 「柄にもなくないわよっ」
 相手が年上でも高名な学者でも遠慮というものがない。もっとも、ヨハンネスは童顔なほうだし、風体からしてとても高名な学者とは思えなかったから、アリエンも笑っていたのだが。
「父からちょっとした調査依頼なの。道具屋の価格に不正があるらしいという報告があってね」
「へえ? ランスで?」
 ヨハンネスは意外だという声を上げた。ランスは最も治安のいい地域のひとつだからである。オリオールはよくわからないけど、という感じに肩をすくめた。

 船は、本当に2日そこそこでランスまで着けるかというのろさで川を進んだ。食料と水をどんどん減らさない限り、船は軽くならないのだ。こんなのどかな船旅をして、ファルスで何かあったらどうするんだろう、とアリエンはまたしても少し心配になった。
 だが船は夜も停止することなく進んでいき、夜中にはファルス領を出るまでもう少しというところまで来ていた。振動は少ないがアリエンは眠れなかったので、ティリオンの傍について、森の上にぽっかりと広がる星空を眺めていた。今宵は新月。星は月の光に邪魔されず存分に輝いている。
「寒くないかい?」
 振り返るとヨハンネスが小型の望遠鏡を片手に立っており、一杯のココアを差し出した。
「ありがとう」
 アリエンは礼を言って受け取ったが、ココアは2杯なかった。ヨハンネスは1人で観測でもしようと出てきただけなのだ。アリエンが気にしだすと、ヨハンネスはにっこり笑った。
「いいんだよ、君がいると観測中になにか素敵なことが起こるかも知れないからね」
「……」
 アリエンは8つの星のことを言い出せなかった。集まったのに、あっという間にバラバラになってしまった星の仲間たち。今度また素敵な星を見ても、やはりまた損なわれるかも知れないではないか。
 沈黙に答えて、事情を知っている天文学者は言った。
「アリエン、相手は死食だよ? 奴にとってはそう簡単に勇者の星が集まってもらっちゃ困るのさ。力をつけて、時期を待って、最後の最後にまとまって戦えばいいんだ」
 じっと彼の話に耳を傾けていたアリエンの頭上を、幾筋もの流れ星が落ちた。
「あれは?」驚いて思わず声が出る。
「これまた時期がズレたが、獅子座流星群だよ。月も星もおかしい、気温もおかしい、全ての生き物は怯えてちぢこまる。これが死食の前兆だ。でも見たまえ、綺麗なものは綺麗じゃないか。そう感じる心まで無くしては勿体無い」
「はい」
 アリエンは流星によってきらめく滝と化した空を見つめ、本当に美しいと思った。そうしてふと、甘えるような鼻息に気づき、アリエンは後方に目をやり立ちあがった。ティリオンの体は星明りに照らされて仄かな銀色に見え、休養したせいか体調がかなり良くなっているようだ。安心して優しくなでる彼女に押し付けてきた馬の鼻面は温かく、愛すべき柔らかな生命の匂いがした。