荒馬と公女
〜メッサーナ女王よりコーデルへの贈り物〜
―ピドナ―

  
 ピドナでの身辺の安全を確保し、かつ重々しい警護を置かないために、療養中のコーデル・フォン・ツヴァイクは、表向きは軽傷でツヴァイクへ戻ったことになっていた。しかしピドナへ来て10日も経つと、コーデルは「安静に」と繰り返す侍医の来ない時間帯を狙って、部屋の中で歩き回ったり、階段を駆け上がったり、鞘ごと剣を振ったりしていた。もう殆ど傷が開く心配はない。それにいつまでもクラウディウス家に滞在するのも迷惑をかけている気がするし、何よりも、動けるのに寝ているのでは体が鈍ってしまう。
 とはいえ、激しく動くと軽く眩暈がすることもあった。それでこのときもコーデルはベッドに座り、誰かが大声を出している中庭のほうへと窓を覗いてみたのだった。蹄がカポカポと乱暴に石畳に響き、どうやら馬が暴れていて、制御するのにてこずっている様子だ。
「どうして外に出ようとしないんだ、オッセ・フィン? こんな家の中庭では思いきり走れないんだぞ」
 友人に話しかけるように、手綱を持つ若者は馬に言った。そしてその若者ときたら、王宮の中だというのに長い髪はボサボサ、袖はめくりあげ、襟ははだけ、ブーツは泥で汚れている。そんななりで中庭の奥まで平気でうろつくとは、なんという無礼な馬番だろうか、と、コーデルは眉をひそめた。だが、見るからに大柄で腕力もありそうな彼でさえ、その馬を言うなりにはできていないというそのこと自体は、彼女に多少とも興味を植えつけていた。

「もう起きてらっしゃってよろしいのですか?」
 凛とした声の響きに、コーデルは振り返った。戸口で微笑みながら立っているのは、アリエンの母上であるミューズ・クラウディア・クラウディウスである。
「はい、おかげさまで」
 コーデルはそう言って軽く頭を下げた。ミューズはベッド脇のソファに優雅に腰を下ろし、相変わらず優しく微笑みながら窓の外に視線を投げた。
「コーデル姫は馬がお好きでいらっしゃいますのね?」
 コーデルは、少し悲しげにうつむきながら答えた。
「好きと言えるのかどうか……ただ、私には昔から馬だけが行動を共にする仲間でした。そして私がどこまで走らせても拒みませんでした、あの馬は。それなのに、私は特にいたわることもせず、時折気分に任せて必要もなく鞭を振るいました。そうして、最後は――」コーデルの脳裏には、魔物に体当たりして砂埃の中でけいれんしている愛馬の姿が浮かんでいた。「最後には、苦痛と恐怖の中で無残に死なせたのです。私は謝ることすらできませんでした。彼女こそ、私の、唯一の友でしたのに」
 ミューズは、コーデルの肩にそっと手を置いた。
「その馬の死は悲しい出来事ですけれど、あなたが責めを負うことはありません。むしろ命がけの戦いの中であなたに頼りにされ、その馬は嬉しかったのではないのかしら? それにコーデル姫、あなたは忘れておいでになるわ。あなたとアリエンは、もうすっかりお友達になっているということをね」
 コーデルはビクンとして顔を上げた。ミューズはさらに続ける。
「あなたは、アリエンとも、オリバーとも、フェリックスやジョカルとも、パイクたち兄弟とももう仲間であり友です。きっとこれからもっと増えるのでしょう。だから、そのように辛そうな顔をなさらないで」
「……はい、ミューズ様」
 コーデルは頷き、少し照れたように微笑んだ。
 しばらくしてミューズが出て行った後、コーデルは肩に置かれていた手の温もりを思い出し、 もし母が生きていたらこんなだったろうかと考え、つと胸が痛んだ。ツヴァイク王宮のエントランスにある母の肖像は美しいが、その声も温もりも暗い海の彼方へ消えたまま、いくら思い出そうとしても決して戻ってきてはくれなかった。

 翌日、強引に出発を決めたコーデルに女王ガラドリエルが謁見することになった。王の間に通されるかと思えばこじんまりした2階の回廊でと聞かされ、多少不本意ではあったがコーデルはそこへ向かった。しかし回廊と言っても普通と違い、石造りの広々と開放的な一角であり、片側に螺旋階段で通じた中庭の緑を見下ろし、もう片側は美しいステンドグラスのはまった大きな窓になっている。清々しい風がコーデルが控える一隅を吹き抜け、ふと入り口を見ると、花そのものという感じの繊細な冠をつけた女王が、1人の銀髪の若い貴族とともに入ってくるところだった。
 女王は、軽い挨拶の後すぐに椅子を勧めた。コーデルは療養を終えたことと感謝を述べ、一刻も早く前線に戻りたく存じますので、と生真面目に言い、女王は出立を認めると答えた。その後は、女王はむしろ歓談を希望していたのだが、コーデルは公女のたしなみ程度に応じるのがせいぜいだった。もっとも、彼女は女王を前にして居心地は良すぎる位であった――良すぎる居心地の、その理由がつかめずに落ちつかなかったのである。
 やがて女王は思い出したように言った。
「ところで、前回ご挨拶にいらしたときには不在で失礼致しました。しかし、申し上げたとおりにはなりましたね、ツヴァイクへお戻りになる際に必ずお会いできると」
 この言葉にコーデルは返事がすぐ出なかった。どういうわけか、女王が言うと偶然も偶然に聞こえない。
「そのときの非礼のお詫びとして、コーデル姫にはピドナ産の乗馬をお贈りしたいと考えました。お気に召すとよろしいのですが」
「ご好意大変嬉しく存じます、ありがたくお受け致します」
 そう答えたそのときだった。「こらーっ、そこを上がるなあっ」という声とともに蹄の音が急に迫り、コーデルが思わず立ちあがった瞬間、窓のステンドグラスが砕け散って、そこから大型の黒い馬が飛びこんできたのである。
 カッ、カッ、カッ。それは昨日コーデルが中庭で見た黒い馬で、その体からすれば手狭な回廊の一角を、眺め回すように堂々と歩き回った。あとから大柄の騎士が追ってそこへ入ってくる。そしてコーデルは彼を見て再度驚いた。無作法な馬番と思った若者は、実はこの近衛騎士だったからだ。
 ガラドリエルは動じた様子もなく、ただ少し呆れてその若い騎士に言った。
「トゥルカス、わらわはコーデル姫に相応しい乗馬をお連れしなさいとは言いましたが、暴れさせよとは申しておりません」
「はっ、申し訳ありません」トゥルカスと言われた大柄の騎士はもう謝るしかなくて平身低頭。
「それで、この馬がコーデル姫への贈り物なのですね?」
「はい」
 ちらと見ると馬はもう落ちついている。トゥルカスはほっとして明るく答えた。
「コーデル姫は気位が高くて相当なじゃじゃ馬と聞きましたので、このオッセ・フィンはぴったりだと思いま――」
 そこで何の気なしに後ろを向き、そこに微妙に自分を睨んでいる公女の顔を見て、トゥルカスは固まった。だが、彼はコーデルにぺとっと頭を下げてから、溜息をついている女王に向き直り、真面目くさって言った。
「陛下、オッセ・フィンはもとは野生馬です。オレを48回振り落とし、馬番のジャックの腕を折りました――」
「そして窓を蹴破り、ツヴァイクの姫を大いに驚かせたはずですが」と、ガラドリエルは引きうけて付け加えた。「トゥルカス。そなた、何ゆえこの馬に伝説の海神に因んだ名をつけました?」
「え、そういう意味だったとは……」彼は困ったように言った。「こいつがそう名乗ったような気がしてそう呼ぶことにしただけなのです。そしてこいつはコーデル姫に会うために、乱暴を働いてでもここに来たかったのだと、今オレは思っているんです」
「そうですか」そう答えたガラドリエルは静かに頷き、コーデルに言った。
「このオッセ・フィンこそ、あなたの馬です、コーデル姫」

 コーデルは黙っていたがかすかに鳥肌が立っていた。この馬の深い藍色に見える黒い体は、腰あたりに白い斑が散り、それがまるで波飛沫に見える。オッセ・フィンとは、海の荒神オッセの髪ということであり、「海神の使い」の意にもなる。トゥルカスは何も知らずにそう名づけ、そしてこの馬こそコーデルに相応しいというのか。海で肉親を亡くしたコーデルにとって、気の荒い海神は宿敵とも言えるというのに。
 しかし、このガラドリエルからの贈り物を拒む気は彼女にはなかった。コーデルは乗りこなし従わせてみたくなったのだ――圧倒的な意思を持つかのような瞳の、この荒馬を。

   その後、中庭に引き出されるまでオッセ・フィンはコーデルに大人しく従った。そして早速乗ってみると、乱暴な野生馬だったとは思えないほど、まさに訓練された名馬の姿勢で静止したのである。周囲から驚きと感嘆の声が漏れた。
 ちょっと試しに走らせるなら近くに草地がありますと言われ、コーデルはそのまま中庭から裏の城門の外まで出ることにした。しかしそこまで馬を連れて来ていざ進めようとして、コーデルは焦った。門の前に立ったオッセ・フィンは、そこから全く動かないのだ。控えめに腹を蹴っても、彼は尾を左右に気持ち良く振りつつ知らん顔である。コーデルは鞭に手をやり、……そして引っ込めた。
「走らないと言うのね、好きになさい」
 そう言って馬を降りたとき、街道を走ってくる早馬が見えた。ツヴァイクの紋章が使者の衣装前面に認められる。コーデルは従者に旗を振らせて使者を停まらせた。
「こ、これは、コーデル姫様、こちらでお目にかかれるとは!」使者は驚いて言った。「これは、叔父君よりツヴァイク公とあなた様への書簡でございます」
 コーデルは自分宛ての手紙をその場で開いて読み、読むうちに手がぶるぶると震え出した。
……決め手となる証拠は得られていない。しかし、年齢、容貌、名前とも、どう考えても偶然とは思われない一致。

 こんなことはありえないと、万に一つも希望はないと思っていた。だからこそ自分は海を憎み呪ったのだ。まさか、でももし本当だったなら!
 コーデルはその場に膝をつき、涙ぐんで小さく叫んだ。
「ああ、神様!」
―― 私は何でも致します、この命など何千回でも差し出します! ですから、どうか妹をお護りください、私の小さなサヴァを!――

 心配した従者がコーデルを支えて立たせ、彼女は中へと戻って行った。そしてオッセ・フィンは、何事もなかったように大人しく、コーデルの後に続いて行く。
 離れた所から全てを見守っていたガラドリエルは、ローズマリーの枝のひとつに手を添えながら、控えている銀髪の貴族にも聞こえるように、こう呟いた。
「コーデル様は明日、ご出立。……きっと母が寂しがりましょう」