内なる竜
〜ヤン・エイ、兄に捕まる〜
―ファルス―

  
  コーデルたちが去って数日。ファルスの本陣は全くの平穏が続いていた。兵士たちも暇をもてあましてカード遊びをしたり、真面目な者は訓練を重ねたりして時間を潰している。
 では、術使いは? ヤン・エイは、おっかないオリオールがいなくなってから拍子抜けしたようにテント付近でブラブラしていた。しかし余りにも暇なので少し丘を上って、イスカル川方面へ歩いて行った。アリエンが帰って来るかも知れないと思ったからである。
 丘のふもとには誰かが立っていた。よくよく見ると水色の髪をした若い術士である。風に乗って彼の声が聞こえてきた。
「スパークリング・ミスト!」
 アビスの毒気のせいでそこだけ枯渇した平野に向かって、ネスは繰り返した。
「スパークリング・ミスト!」
 ヤンは彼が術の練習をしているのだと思って邪魔しないように眺めていた。だが、それにしてはネスは同じ術を、同じ平野に向けて放つばかりである。ヤンが不思議に感じて頭をボリボリと掻いていると、ネスは振り返らないまま声をかけた。
「ヤン・エイ君だったよね。僕はネス。この術に興味があるならこっちへ来たらどう?」
「はい」
 ヤンは大人しく従い、丘を下って行った。ネスは微笑んで手を差し出したのでヤンもできるだけ笑って握手した。
「あの、術の訓練をしてるんですか?」
 ネスは目の前の平野を指差した。
「いや、そうじゃないんだ。いいかい? この一帯は昔は一面の大麦畑だったんだ。それがゲートの出現以来汚染され、度重なる戦闘で踏み荒らされて、今では雑草さえ育っていない。しかし、ゲートを閉じる一連の戦いの後には、アビスの臭気も毒気も消えつつあるんだよ。いずれこの土地は甦る。僕がしているのは、スパークリング・ミストでこの土壌に空気と水を送りこむことだ。たとえ微力でも、この土地に少しでも早く生命を呼び戻したいんだ。戻ってさえくれるなら、それが雑草でもつまんない虫の1匹でも構わないのさ」
 ヤンは驚いて大きく目を見開いた。彼は兄のように剣術を修めることができずに術をマスターした。だから術はあくまでも剣の代りで、攻撃に使うものとばかり思っていたし、実際、蒼竜術には攻撃メインの使い方ばかり揃っている。無論、ほかの術にヒーリングや防御効果があることは知っている。だがこのネスのように、本来攻撃のためにある術を使って、不毛の土地を耕すなんて見たことがない。他を圧倒する威力のある術を使って、虫1匹のためにすみかを作るなんて聞いたこともない!
 晴天下の乾いた風がスッと抜けていき、ヤンの中で何かが動いたようだった。
「僕も手伝う」と、ヤンは言った。
 ネスは嬉しそうに微笑んだ。「そう言ってくれると思ったよ」

 2人はごそごそと相談しては、平野に向かって術を放った。はじめはスパークリング・ミストとソーン・バインド。
「僕をからめとってどうするんだ」イバラに覆われたネスは静かに言った。
「ご、ごめん」
 次は生命の水とトルネード。
「ダメだ、地表を水が滑っていくばっかりで」
 そう言って遠くの空を見たネスは、雷雲が漂ってきていることに気づいた。この辺りは天候が急に変わることなど滅多になかったはず。それに、秋なのに風向きも南に変わっている。雷雲の合間には稲光が見えた。まるで、初夏のような空だ。
 ネスが手を止めて空を見る間に、ヤンが思いついたように声を上げた。
「スパークリング・ミストが有効なら、雷が使えるってことでしょ? あの稲妻、こっちに引っ張って来れないだろうか?」
「えっ?」
 ネスは思わず聞き返した。ヤンは空をじっと見詰め、トルネードの構えを見せている。トルネードでは雷雲を追いやってしまうとネスは思ったが、そんなことは蒼竜術の使い手には分かりきっているはずなので口には出さなかった。事実、ヤンは一旦外に向けたトルネードの構えを、ゆっくりと、舞うような手つきで内側に向けたのである。冥想状態のヤンの黒髪は強力な術を使うとき特有の青光りを見せ、かすかにうねっていた。
 ネスは鳥肌が立った。この術士は本気だ。本気であの雷雲を操ろうとしている――!

――老師、こんなときは何と念じれば良いのですか?
――口先で命じても風は凪ぐばかりじゃぞ。おのれの内なる竜に聞け、ヤン・エイよ。そなたの中には竜が宿っておる……

 目を開いたヤンは、荒地の端に立ち、雷雲めがけて手をかざしながらこう叫んだ。
「天空の峰に住まう白銀の鳥に命ず、 
地の果てまで雲をなびかす 紅の神竜に命ず、
雷雲の頂より光の剣をつかみとり、
地の嘆きを貫け、サンダー・ボルト!」

 ネスの視界は夥しい数の稲妻で白く光り、周囲は耳を覆っても無駄なほどの落雷の轟音に包まれた。30秒ほどそれが続いて、ついに全てが去ったとき、荒れ放題の平野は当初から豊かな沃地だったかと見まごうばかりに変容し、そして川のほうで怒鳴る声がかすかに聞こえた。
「あ」ヤンは困ったように頭を掻いた。ネスは急いで尋ねる。
「ヤン、今のは!?」
「風の渦をまとめてあの雲にぶつけた――ような気がする」
「だって君、さっきの文句は?」
「ええと、思いつきをぶっつけで」
 照れよりも焦る様子の上目遣いで答え、ヤンはそっと立ち去ろうとした。だが。
「こらーっ! よりによって実の兄に術を見舞うとは何事かっ!」
 先ほどの強烈な落雷を異変かと馬で駆けつけたジョカルが見たとき、髪が焦げたような若い武人がヤンに歩み寄るところだった。軽装だが身のこなしといい体格といい、ヤンとは対照的。ネスは悪いとは思ったが吹き出しそうになった。
 じたばたして兄上ごめんなさいを連発する弟を、武人の兄は片手でつまみあげた。
「弟がご迷惑をおかけしております。私は玄城から参りました、ヤン・ヒョウと申す者。総司令官殿にご挨拶申し上げます」