沈黙の大地
〜ジョカルとオリバー、早々の活躍〜
―アクバー峠―

  
  粗末な、石を重ねただけの墓標は、風が吹くとコロンと崩れ落ちた。石だとばかり思っていた重い塊は塩だったのだ。もう涙も出ない。振りかえるとこの8日ずっと照りつづけていた容赦のない太陽が今日も昇っていた。また一日の労働が始まる。仕事は一面の岩塩をひたすら掘って採取することだ。たった8日で過労で死人が3人目。一日終ってもまた次。この労働はきっと全員が死ぬまで続く。少年ロサは、これが忍耐の限界だと思った。
 アクバー峠のふもとで遊牧民の暮らしをしていたロサは、14になるが学校に行ったこともないし、字も読めない。だから船でやってきた西方人が何者かも知らず、村人は無防備にも親切にかれらをもてなし、翌朝にはいきなり馬車に積み込まれて峠の頂付近に放り出された。
 かれら遊牧民の間には峠には神が住んでいるので決して立ち入ってはならぬという言い伝えがあった。その神はアクバー峠の頂に通じる大地の裂け目に住み、いにしえの人々が文明を築き滅び去り、また王国を作るまでを見守ってきた賢者にして竜王と伝えられる。そうしてその姿はナジュの民と同じ褐色の肌に長身の逞しい体、賢者の温厚な顔立ちながら、原色のローブを優雅にまとったさまは威厳に満ち、その片手は円形の鋭い金属武器を携え、その腰には砂嵐を起こす巨大な曲刀を下げているという。しかもその神が住まう頂には天空の花園があり、神々しい滝が周囲に瑞々しい緑を育んでいるものと信じられてきたのである。
 しかしロサがその目で見た峠は、見渡す限り塩でできていた。山は形のみ山であって草も土もなく、生きている者は作業させられる自分たちだけである。太陽は照り付けては反射し、水は少ししか貰えず、休める陰もない。
 よそものに拉致されたのはロサの西の村人だけで、東からは誰も連行されていなかった。正確に言えば、連行されなかったか、抵抗して殺されたかだ。そして過酷な労働によりロサの村の人々は弱り倒れていく。
 それを見て、この地に神はいない、とロサは泣きながら自分に言い聞かせた。村人はこの地の神に貴重なヤギを捧げ、酒を捧げ、祈ることもした。神を守護神と信じるからこそ、ロサたちの西の村は、東側にある村へ行くにもわざわざ遠回りして峠を越えていたのだ。もし神がいるならば、おのれを信奉してきた村の者を見捨てるわけがない。それどころか、許しも無く土足で神の領域を踏みにじるよそものに激怒してしかるべきであろう。けれど、いくらこのくだらない神に祈ろうと、耐えて信じようと、先にあるのは奴隷の生と惨めな死だけだ。それが現実。

 いたずらなロサをいつも庇いかわいがっていた村長は昨夜死んだ。それから1人で墓標を立てながら、ロサはこれまでとは違う自分を見つけた。それは、怯えきって従順で、ひたすら塩の壁に向かう奴隷ではなく、攻撃的で憎悪や悲嘆を力に変えうる戦士の自分だった。たしかに疲れていたが、若く柔軟な体はまだ敵に立ち向かう気力に応え得る。決心したロサは見張りの目を盗んで工具を隠し、夜の間に仲間に計画を話してこれを武器に改造した。夜明け前、粗末なテントを出たロサは、こっそりとかがり火を消し、背後から見張りに忍び寄りその頭上に一発お見舞いした。
 ゴスッ!
 見張りはこもったような声を立てて倒れこんだ。しかし。
「げふっ」
 苦痛に顔を歪めて倒れるのは今度はロサの番だった。星明りの下、後ろにもうひとり、せせら笑うような顔で、この時間帯にはいないはずの見張りが立っていた。
「工具をこそこそ持ち出していたから何か企んでいるとは思ったぜ。ちょっと顔貸しな、小僧。ほかの奴隷どもにまで余計なことを唆しやがって」
「オレたちは……奴隷じゃない」
 ロサは口の中にたまった血を吐き出し、相手を睨みつけながら言った。見張りは口の端で笑った。
「言っておくが、お前ら皆殺しにしたところで労働力には事欠かない。すぐに次の船が奴隷を運んでくるんでな」
 ロサは見張りが剣を抜く音を耳にし、殺されると思って顔を背けた。けれど次の瞬間には、剣が振り下ろされるかわりに見張りがうめいて傍にうずくまった。見れば剣を持つ腕に深々と矢が突き立っている。ロサはびくりとして顔を上げた。

「妙な動きをすればもう片方の腕も縫いつけるぞ」
「さもなければ両足を叩き潰す――君、大丈夫か?」
 わずかな星あかりでしかも逆光気味だったために、ロサは2人の顔がすぐにはわからなかった。ただ、声は若い。暗がりで標的を射抜いた弓の名手はいかにも西方人の若者、もう1人は長身で、かすかにだが、ナジュ砂漠の民のアクセントが混じっていた。
 2人に両脇を抱えられてロサは立ちあがった。2人の後方には西方の兵士が数十人いて、見張りたちをすでに縛り上げている。2人はピドナから来た対アビス軍の総司令官とその仲間であり、物資輸送で訪れたリブロフで、村をひとつ消し去ったテント社の悪行を知ったというわけである。夜でも構わずアクバー峠を目指すと言い出したのは、これに岩塩の採取が関わっていると知って激怒した弓使いのほうだった。
「オレはジョカル。ジョカル・カーソン・グレイ。こっちはオリバー・ベントだ。君の村の人たちは残らず保護してある。負傷者や病人から先にリブロフに送ろうと思うがよいかな」
「ありがとうございます。でもなぜその報告をオレに?」
「村長の死後、抵抗しようと皆をまとめたそうじゃないか。リーダーは君だと皆言っている」
 峠には、かつての村のように生き生きとしたざわめきが満ちていた。そして不意に星明りも消え、風が起こり、突然湧いた黒雲が夜明け前のアクバー峠に雨をもたらした。
 ここには避難する場所はない。もっと下って岩棚までいき雷をやりすごさねばならない。自分の立場を理解したロサが口を開こうとしたとき、長身の総司令官のマントが峠の風にひるがえり、傍のかがり火が彼の彫りの深い面立ちを映し出した。その顔を見れば見るほど、若い兵士というより異国の王を思わせる威厳が伝わってくる。腰には見事な細工の鞘にはまった曲刀。そして東の尾根では闇と光が入り混じり、何かが起きそうだと嫌でも感じるような風と雲のせめぎあいが続いている。
 村長の家にかけられた、人の姿をした竜王の古びた絵がロサの脳裏に鮮やかに甦った。村長は、聡明さ故に守護神の存在を疑うロサに向かって優しく繰り返していたものだ。
《彼は長い長い眠りについた、だがこの世界の危機には必ず姿を現すと言われておる。ロサよ、時に疑いが生じるのも自然であろう。だがそれでも、この地の守護神の、その名だけは忘れるのではないぞ、その名は――》
 アル・アクバル、と、ロサは震える声で呟いた。