極北の再会 〜オリオール、探索する〜 ―氷湖―
オリオール・フルブライトは自社の船のラウンジから、目の前に広がる氷湖を眺めていた。20年ほど前に比べて一層寒さが厳しく、周辺の森林を氷雪で覆い尽くした一方で、湖と呼べる部分の形状も変化した。とはいえ海に通じていないので通常の船は出入りしない。ごくまれに、ユーステルム領内の若い狩人が腕試しのために入りこんでは、すさまじい寒さと風に負けてすぐに退散する程度だという。
オリオールが無理やりに船を運びこませたのはそんな場所であった。船はフルブライト社製にしては(あくまでも「にしては」)質実剛健な造りで小回りの利く探索用のものである。先端にはいくつかの最新式の武器と、氷をどんどん砕いて船内に取り入れ、ついでに良質のロックアイスを生産する機能まで備わっていた。フルブライト社に無駄遣いという言葉はない。
「前方20キロの天候の具合はどう?」と、オリオールはブランデーでゆっくりと体を温めながら部下に聞いた。
「今のところ、霧の発生もなく、ブリザードも確認されません」 「目標物は?」
「いまだに発見されません」
「そ」
オリオールは再びレザーのハイバックチェアに身を埋めた。そう簡単には見付からないことは予想がついている。相手――テント社のものと思われる怪しい船が、近辺を警戒していたユーステルム水軍のすぐ傍を逃走するところが目撃され、オリオールはその船の正体をつきとめようとしていた。テント社と聞いてフルブライト家が全面的な協力を申し出たのである。そもそも、岩塩で空前の利益をあげている会社がこんな北の果てで何をしているのか。オリバー一家に毒チョコレートを届けるという敵意を見て以来、オリオールはテント社と耳にするだけで敏感になっていた。
そしてもうひとつ、ユーステルム卿はオリオールに調査を依頼したいと言ったのである。 「氷湖の近所でときどき猟師が聞くという、地の底からの振動音が気になるのさ。もっともその音は、俺があそこを縄張りにしてた頃にも聞こえた。近頃はその回数が多くなっているってことだ」
「地震の前触れでしょうか?」
「それが、ここいらの地層は調べたがとんでもなく硬くて、断層もまるでないらしい。何かほかの理由じゃねえのかな」
オリオールはこのとき、何の儲けにもなりそうにないと知りつつも、謎の振動を調べたくなっている自分に気付いていた。
「わかりました、できるだけの探索を致します」と、彼女は本気で答えた。ユーステルム卿が、貴族らしくきちんと手入れされた髪と髭で、着ている物や屋敷も非常に趣味がいいにも関わらず、ロブスターの甲羅を加工したイスに足を組んで行儀悪く座るスタイルが気に入ったせいばかりでもなかった。
そのとき突風が吹いて船は大きく横に揺れた。デッキはせわしくなっている。
「何事?」
「目標を発見しました、風の強い区域なので夜に備えているようです」
ユーステルム水軍の士官が望遠鏡を寄越した。すぐに覗いてみると、褐色の船体が氷壁の陰に見え隠れしている。波が高いので簡単には接岸できないようだ。 特に悪事をしている明確な証拠は見えない、だが今のオリオールはユーステルム卿が後ろ盾である。他国の船は、許可なくユーステルム領であるこの場所に入りこむだけで捕らえることが許される! フルブライト社の船はウィルミントン、ユーステルム両方の旗を掲げ、高波をものともせず、褐色の船に接近していった。しかし、双眼鏡をのぞいていたオリオールはそこで驚いて言った。 「あれは、テント社じゃない――」
部下たちは武装しようと準備しかかっていた手を止め振り返る。
「まさか、テント社じゃないなら海賊船ですか!?」
「違うわ」オリオールはもはや落ちついていた。その瞳には少々落胆の色さえ見える。「あれは、ツヴァイクの船ね。そしてこちらを見て助けを求める手信号を寄越してるわね……」
強風はまもなくブリザードに変わった。オリオール側からロープを投げてツヴァイクの船を繋げる作業は困難を極め、1時間近くかかってツヴァイク側乗組員たちと合流することになった。船は両方とも接岸したが、ツヴァイク側からは代表者らしき若い男がデッキに乗り移ってきた。氷粒を顔に被りながらも礼儀正しく会釈してオリオールの船室に入ってくると彼は言った。
「ユーステルム水軍にここでお会いできるとは、危ういところを本当に助かりました、心よりお礼申し上げます、私はツヴァイク公国の――」
オリオールは小さく笑って遮った。
「あら、これは珍しい。名誉ある騎士アレク・バイカル殿じゃありませんか」
「あっ!」
アレクは死ぬほど驚いたような顔をした。しかしそこは貴族らしく、過去の因縁は忘れたように丁寧に挨拶を続けた。それから、
「おそらくは怪しい船と誤解されたかと思いますが」 オリオールは、短い口ひげに霜をぶらさげた若い貴族にブランデーのグラスを差し出してからこう切り返した。
「無論怪しみますわ、私たちは悪名高いテント社の船を追跡している途中だったのですし、怪しい船と聞いてこの水域を回っていたのですからね」
「それは偶然だがすまないことをしました。我々はツヴァイク領内で悪事を働いた悪党を追ってここまで来たのです」
「なるほど? ではその悪党とやらは人間ではないのでしょうね、こんなところへ逃げこむくらいですものね」
「信じていただけないでしょうが、姿だけは人間そっくりですよ。中身は悪魔だが」 アレクはブランデーで胃がかっと熱くなるのを感じて、思わずそこで言葉を切った。オリオールはその顔をうかがいながら、今度は興味をそそられたように言う。 「その悪魔は……ツヴァイクで一体どんな悪さを?」
「ツヴァイクの高名な科学者ばかりを殺害し、研究結果の文書を持ち去った」
「悪魔にしてはこじんまりとした悪事を働くことね。目的は?」
「それが分かれば苦労はしない」と小声で呟いてから彼は溜息をついて、「アビスの魔物に関係していたら問題は捨て置けないということで捜索している。ツヴァイク公国はお尋ね者の捜索目的であれば世界中どこでも船を出す権限があることはご承知と思うが」
「『トリオール条約第14条第2項、緊急時の例外措置』の意味でなら」
外のブリザードは早くも止みかけている。アレクは真面目に頷き、
「ご理解いただき助かる。救助には感謝するとユーステルム卿にもお伝え下さい。それでは私はこれで失礼を――」
そう言ったときだった。海面が泡立ち、大きくブルンと震えたように見えたかと思うと、2隻の船をゆうに越える長さの灰色の角状のものが現れ、続いて灰色と象牙色の本体が一部だけ水面を通りすぎた。船室の窓にも飛沫がかかり、その巨体はくっきりと見えた。
このときオリオールもこの巨大な生物に驚きはしたが、モンスターだらけの氷湖なのだから何がいてもおかしくはないと思った。そして傍にいたアレクが真っ青になったのを見逃さなかった。
「なりこそ大きいけれど、敵意は少しも感じなかったわよ」
オリオールが頬杖をついてにやりとしたのでアレクはもたもたと言った。 「一角クジラは無害なことくらい知っている。ただ見るのが初めてなのでその大きさに驚いただけだ」
「そう? では風もおさまってきたから、私たちはまたテント社探しに向かうわ。そっちも上手くやってちょうだい」 「ありがとう」アレクは握手の手を差し出した。「それにご馳走様」
「どういたしまして」
オリオールは彼の手を握り返して答え、別れると間もなく船を離した。
夜に備えてここで接岸し、ツヴァイク船と一緒に行動するのが本来は得策のはずである。けれども彼女の直感はここを離れるようにと告げていた。これまで何百何千という人と握手を交わしてきたオリオールは、手の感覚だけで相手の簡単な心理を読み取ることが出来る。革手袋のアレク・バイカルの手からかすかに感じたのは、――どの部分かは分からないけれども――彼が苦しい嘘を言っているということだった。
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