信号弾
〜オリバーと危険な岩山〜
―アクバー峠麓付近―

  
     オリバーたちが助けた負傷者は、幸いなことに応急処置の傷薬で命だけは取りとめたらしかった。オリバーたちは一旦村を目指して行き、途中で援軍要請の信号弾を撃つことにして、峡谷をひきあげていく。
 やがて日光を浴びたせいか、意識を取り戻した若い剣士はしきりにオリバーに話をしたがった。オリバーは微笑んでやさしく言った。
「あなたのお名前は?」
「イザーク……向こう側に助けを……」
「オーケイ、イザーク。ジョカルはある公国のトーナメントで優勝したつわものです。その彼が向こうに入りこみました。援軍が行くまでやられはしませんよ。僕は、まずは村まであなたがたを届けることが重要です」
「向こう側で、親友が息絶えた。何時間前か、何日前か……そのとき、一瞬見えたんだ、あの方が……!」
 彼は咳き込んで呼吸が厳しくなった。オリバーは、続きは村に戻ってからでいいと説得せねばならなかった。
 太陽は照り付け、馬の蹄が時々砂にめり込んだ。オリバーが顔を上げて見回すと、ジョカルがいる谷が遠ざかって、そのはずれにぽつんと岩山がそびえているところに出た。  

「あの岩山がいい」と、オリバーはロサに言った。
「わかりました。すぐ行ってきます」
 ロサは手早く信号弾の準備を始める。そうして1人で向かおうとしたので、オリバーは一緒に行くと言ってロサの肩を叩いた。ひとりで歩いて行くにはちょっと離れすぎていると思ったのだ。
 他の兵士たちは心得ていたので、あとから追いつくからと念を押して、オリバーはロサを自分のうしろに乗せ、岩山に急いだ。
 岩山はすごく近くに見えたが馬でもなかなかつかなかった。周囲には短い草が生えて、転がっている尖った石を隠している。先に馬を下りたロサに、気をつけろ、とオリバーは言ったが、狩人であるロサのほうがこんな場所には慣れていた。
 そのロサが先に行って丘のような小さな空間に出たとき、顔色を変えた。
「どうした?」
 オリバーは傍に寄り、その光景を見て一瞬立ちすくんだ。

 細いポツンとした岩山でしかないこの場所に、ぽっかりと穴が開いていた。馬でも数頭がゆうに通れる大きさだ。穴は斜め横に開き、強烈な熱か炎が出た後のように周囲が焦げて、今も臭いが残っている。その奥を目をこらして覗いてみれば、大きめのサソリが数十匹、折り重なって死んでいるのが見えた。
ゲートだろうか? オリバーは慎重に横を通過したが、周辺の赤土に足跡は残っておらず、サソリももう死んでしまって動く気配はなかった。
「通れるよ、行こう。でも馬に乗ったほうがいい」
 それで2人は馬で注意深く岩山の頂を目指した。馬の足元で小さい岩が崩れ、滑落していく音が砂漠にまで響くようだ。最後は馬を降り、強い風の中を突端近くまで登った。
 オリバーはまず味方の位置を確認した。荒地をそろそろと進む一行は村を目指して直進している。急げば追い付くのにそう時間はかからないだろう。見渡す先は砂漠で何もなく、周囲に敵の姿も見えなかった。
 ロサは信号弾を取り出し、点火はいつでもできると告げた。
「風向きはいいけど、ちょっと強すぎです」
「しばらく待てばおさまるかな」
「ええ」
 オリバーは突端の岩に腰掛けたロサの真似をしようとしたが、下を見るとぞっとしてさすがにできなかった。彼はしっかりした岩をつかんで傍に立っていることにした。

「彼が言ってた『あの方』って、ジョカルのことではないようだが」
 ロサは風に耐えながら、ふと話し出したオリバーのほうを向いた。
「あの村の人たちは僕らの村とは出自が違うのです。交流もほとんどありませんでした」
「ゲッシアにゆかりがあるんだろうね?」
「貴族が流れてきたという噂はありました。話に出てきたセンウセルトというのは、昔の王様の名前と一緒だし」
「ニルギニさんだけど、神官じゃないのだろうか?」
「さあ詳しくは。多分長老ならご存知でしたけど」
 その長老は死んでしまった。あの塩の山で酷使されて。
 ロサは言葉を切り、下を向いて唇を噛んだ。だが、ちょうどそのとき風が変わった。
 ロサはキリリとした顔を上げて言った。
「風が! 今なら丁度いい」
「よし」
 オリバーはバランスを崩さないよう、少年の体を支え、信号弾を撃つタイミングに備えた。簡単な矢筒を改良したそれは、リブロフ方向へしっかりと向いている。
「3、2、1、点火!」
 ボシュッ!
 2人は澄んだ空に向かって高く飛んだ信号弾が、やがて強い光を発してはじけ、大きく弧を描いて砂漠に落ちていくのを見届けた。
「これで役目は済んだ。戻ろう」

 2人は馬のところまで戻り、すぐに麓へと取って返し、ほどなく最初の草地にさしかかった。しかし馬はなにかに怯えた様子で、まっすぐ走ろうとしない。ロサは身軽に飛び降りたが、オリバーはしばらく馬をなだめなければならなかった。
 そのとき、岩と草の間からシャラシャラと乾いた音が聞こえた。
「ロサ、……岩を背にして立つんだ」
 オリバーは後ろ手に矢を確認。
 シャラ、シャラ。
「2匹いるね?」
 耳を澄ませたロサは、馬を誘導して庇いながら、狩人の感覚で相手の位置を探る。
「3匹。1匹は、東側斜め前」
 少年が小声で言うと、岩の前で背中合わせになったオリバーはお見事、とばかりに片手の指先で小さく拍手してみせる。
「ちなみに、何だかわかる?」
 ロサは自分も三日月刀の鞘を払い、ダガーを左手に持って即答した。
「マンティスゴット。昆虫モンスター最強種です」

 その言葉がキューであったかのように一匹が正面からオリバーに向かってきた。黒光りする鋼鉄のような殻、何も映していない無機質な目。オリバーが弱いと見て取ったのか、獲物に対してするように、ノコギリの歯のような鎌を振り上げた。
「この化物を前にして『種』といってのけるあたりが、さすが狩人だよ」
 そういいながら、オリバーは弓の照準を合わせ、巨大昆虫の弱点であるくびれに狙いをつける。その傍では、姿を見せた2匹目にロサがダガーを投げる構え。
「当然! どっちが狩られる側か思い知らせてやりましょう」
 空気を切り裂く2種類の武器の音。次に続くのは昆虫の断末魔の羽音。
 たちまちのうちに2匹が砂地で痙攣し、羽根を半ば開いたまま、動かなくなった。
「あと1匹」オリバーが呟く。「前のより重そうだ」
 シャラ……。
 間があった。ロサがけげんな顔をする。
「遠ざかっていく。砂漠の方に」
 岩陰にちらとその姿が見えた。倒した2匹よりも倍もある体長と、黒でなく油のような七色に光っている背面。
 先の2匹より強いのに、目の前の獲物を逃す理由は?
 オリバーとロサは顔を見合わせ、すぐに気がついた。  負傷者の列がすぐ近くにいる、そのニオイを嗅ぎつけたのだ。
 馬首をめぐらせたオリバーは、ロサに手を貸して飛び乗らせた。
「急ぐぞ、味方が危ない」
「はいっ」
 2人を乗せた馬は、今度は怯えることなく砂漠に続く荒地を疾走した。蹄は勢い良く砂を蹴散らし、その土埃は再び強まった風に乗って、あらゆる方向に舞い散った。