スケッチブック 〜バーニングブライヤー号の帰還〜 ―ジャングル・アケの港町―
南国の潮風が宿屋の窓から入ってきた。コッティは、スケッチブックに向かう真剣な顔のサヴァの横で、買って来たばかりのアケのスナック菓子をポリポリをやっている。ティベリウスは弟子を連れて町へ出ており、フェリックスはせっせと手紙を書きつつ、サヴァのスケッチがいつ終るか少々気になる様子。
けだるい歌声のような港の喧騒が聞こえていたが、やがてその音を強く掻き消すように、少年の声が一帯に響き渡った。
「戻ってきた! バーニング・ブライヤー号が戻ってきた!」
サヴァの仕上げのペンがぴたっと止り、顔を上げたその表情を見て、コッティが嬉しそうに笑った。
「お待ちかね。行かなきゃね、お出迎えに」
あちこちのドアが勢い良く開かれ、20年前より相当発展したとはいえ、この町にそんなに人口があったかと驚くほどの人数が、埠頭に殺到していった。
海賊ファルコ一味は、この港町ではおおっぴらに出迎えられる。この地方ほど、奴隷貿易の犠牲になった土地もなかったし、ファルコは奴隷貿易の天敵となっていた。さらにまた、今回も、ジャングルの村から拉致された人々を救出に行ったのが彼らだったからだ。
眩しい青空と紺碧の海を背景に、誇らしげに旗をかかげ、無傷で入港する真紅の船BBの甲板には、故郷に戻ってきて元気に手を振る村人がひしめいている。
サヴァとコッティは、フェリックスをガードに仕立て、人混みをかきわけて船に近づいた。
「今叫びなさいよ、あんたの声を聞いたら、その海賊のかしら、きっと海に飛びこんででも一番乗りであんたに会いに来るわよ」
「コッティ、そんなに押さなくても」サヴァは返答に困ったので、わざとそんなことを言った。
「老師とズィールさんはどこへ行ったかな」
市場のほうで歓声が上がった。見ると、取引所の石段に立っているティベリウスと傍に控えるズィールを住民が取り囲んで、感謝の言葉や花輪や果物や生きているニワトリまで、とにかくプレゼント責めにしているところだった。サヴァは、その光景に気を取られ、人の波に押されて船体のうしろのほうへ進んでしまっていた。
「サヴァ」
聞き慣れた声に振り返ると、ファルコが飛び降りてきた。
「ファルコ! よかった、無事で」
「ここで会えるとは思わなかった」
サヴァが走っていって彼の首に両腕でまきつくと、コッティは、黒猫がその上でくつろいでいるコンテナの陰で、よしっとガッツポーズをした。けれどもそのあとコッティは(なぜか)落胆の連続となる。
「ここへ来たのは、理由があるの。長い話になるわ」
「長い話でも全部聞かせてもらうぞ。それにその手、ケガをしたのか、ちゃんと手当てしたのか?」
相変わらずの子供扱い。サヴァは手をひっこめ、キッと彼を睨んだ。 「ゲートと閉める冒険をすれば、負傷くらいするわ。ファルコだって、私が義勇軍に入ることに反対しなかったじゃないの」
「それはそうだが」
「仲間を紹介したいわ。そこのコンテナに隠れているのがコッティ、そっちがフェリックス。あと2人いるの。今忙しそうだけどね」
おや、と、ファルコは示された方向を向いた。しぶしぶ出てきて営業用の笑顔を作ったコッティには紳士らしく、握手を求めてきたフェリックスには、同様に握手で応じた。
「サヴァが世話になったようで。良かったら、早速私の船でお茶でもどうぞ?」
「すごいわ、この船。海賊船だと聞いていたのに!」
「聞き捨てならんな、海賊船をバカにするんじゃない」と、舳先から声がした。隻眼のマリノである。サヴァが手を振るとけらけら笑いながら手を振り返した。そうしてコッティこそさっきの声の主と見定めると、いきなり近づき、挨拶もなしに語り始めた。「このバーニング・ブライヤー号というのはな、かのメッサーナの変の折り、燃えあがるバラ園の光景を見たピドナの船大工が……」
フェリックスは礼儀としてその話に付き合わねばならないような気がしたが、ファルコもサヴァもいつものことと無視して別の話をしている。結局、マリノに捕まりっぱなしはコッティ、そしてそこへティベリウスとズィールが住人を従えて近づいてきた。
「ファルコ・ロッシとその一味の活躍ぶり、噂は聞いておりましたぞ」
「おそれいります」
「救われた村人からことのいきさつは聞きました。あとは我々に任せ、ごゆっくりされてください。町のものは残らずあなた方を歓迎するそうです」ズィールが言った。
「ありがたいが、我々は装備を整え、急ぎ出航せねばなりません。村の人々を拉致したテント社ですが、30を数える海賊船の集まりとなっていました。幸い、村人の乗った船はすぐ捕らえましたが、旗艦にはあやしい術使いが乗っていて砲撃も届かず、取り逃がしたままなのです。しかし、かれらは確実に捕縛し、しかるべき裁判にかけねばなりません」
それは海賊ファルコ・ロッシの義務です、と言いながら、ファルコはサヴァを見遣った。
その瞳の奥を見ていて、楽しい再会のときは瞬く間に過ぎた、と、一瞬サヴァは思った。
ファルコはグレートアーチに寄っても、いつも今と似たようなことを言って出航していった。そのたびに、サヴァは自分も乗りたいとは思ったが、この船が負けるとは夢にも考えたことがない。それが今回は、何か不吉な予感がよぎっていった。 その不安はすぐサヴァの顔に出たらしい。
「……心配はいらない。その方たちも一緒に、途中の安全な港で降ろすから」
「ええ、心配なんか、全然」サヴァは上の空で言った。
「サヴァ!」
人混みからフェリックスが戻ってきた。今の間に手紙を送る手続きをしてきたのだという。 「どうかした?」
「今、知り合いとすれ違った。ジョカルの――総司令官のジョカルさ、彼の、行方知れずの父上ではないかと思う。会って話がしたい」
「じゃあ船には?」
「すまないが、僕はしばらくここに残ります、ミスター・ロッシ、君ともここでお別れだ、サヴァ」
ロアーヌ貴族として諸国に顔が知れているフェリックス・ノールが、極秘にメッサーナ女王とつながっているとはいえ、海賊船に乗るのはあちこちで問題になりかねない。知り合いを探すというのは口実に過ぎないが、ファルコは、理由を露骨に言わなかったことも彼の心遣いと理解した。
「そうか、残念だが、いつかまた」 「ええ、是非」フェリックスはいつもの人なつこい笑顔でそう返し、「サヴァたちをよろしく頼みます」と真顔で言った。
「それは、無論のこと」ファルコは自分も笑顔で返したが、フェリックスはサヴァに聞こえないようにこう付け加えた。
「ロアーヌ王がサヴァに生まれを尋ねたとき、サヴァは知らないと言った。だけどあなたの船を待つ間に彼女は2枚の見事なスケッチを僕にくれました。一枚は、ゲートで出会った少年、これは僕が頼んだからです。そしてもう一枚ははしりがきで――」
フェリックスはファルコの手に素早く小さな紙を握らせた。そしてちらっとその絵を見たファルコの表情が硬くなるのを見て、フェリックスはうなずいた。
「彼女のこと、お願いします」
「誓って守りましょう」
ファルコは、フェリックスに言われなくてもそれをこれまで幾度も誓っていた。 深夜、船の宴会は鎮まり、一同はぐっすり寝こんでいた。それでやっと一人になったファルコはランプの下で絵を広げ、容赦なく決定的な図柄をそこに見た。それは、難破した船でサヴァを助けるときブラックが見たという図。そして救われた赤子のサヴァが着ていたガウンについていた装飾である。サヴァはそのガウンをなくしたと言ってブラックに叱られたことがあった。そしてブラックが彼女を叱ったのは、それ一度きりだと聞いている。
月と一角クジラの紋章。それだけなら一般人も目にする、ツヴァイクのいわゆる紋章である。けれどもサヴァが描いたその図には、公爵家の直系を示す鹿の枝角が添えられていた。
ファルコは、それをサヴァが描いたこと自体はそれほどショックではなかった。ただ、子供のころから親しかった自分ではなく、会ったばかりのフェリックスにその絵を渡した、この事実。ファルコは握り締めた紙片を見ながら、ひとつの文句が頭をぐるぐる巡るのをどうしようもなかった。
――身分違い。
そんなことは最初から知っている。身分が違う、だから、何の障害だというのか? 障害になるような何を、自分はサヴァに期待していたのか? ファルコは片手で額を抑え、低く、悲しげに笑った。
|