ささやく声 〜ダークネスとエラノール〜 ―ランスの街道からそれた林―
アリエンは林の間に気配を感じて手綱を締めた。
「誰? ヤン君たち?」
返事はない。だが、目を凝らして見ると、たしかに何かが動いた。アリエンの目には、少女のように見えた。 「誰?……」
アリエンは少し寒気を感じながら呟いた。ここは街道から外れているし、林は坂になっていて、散歩道にもなりうるはずがない。まして、すぐ傍をラセツが荒らした跡まである。そこを少女が、しかもアリエンのほうをうかがいながらついてくるとは、ただごとではない。
アリエンはすぐに抜けるように槍に右手をかけた。そのとき、林の中からくすっと笑う声が聞こて、アリエンは振り返った。
「ラセツなら、ここにはいないわ。安全だから、出てきてちょうだい」
なんとなく、声が震えた。
《そうやって、偽善ぶってもダメよ》
悪意のある声だった。ただ、聞いたことがあるような気がする。
アリエンは思い出して驚いた。その声は、ランスにいるあのフィデリスに似ているのだ。
「どういうこと?」
《ふん、だってヤリに手をかけているじゃない。私が何かしたらそれで刺すつもりでしょ》
「……仲間が危ないの。保護が不要なら、わたし、行くわね」
気配は追ってきた。ティリオンの速歩にやすやすと追い付いて来る。やはり、ただの少女ではないらしい。 アリエンは無視して先を急いだ。すると、林が途切れて丘陵に出た途端、そこに声の主が現れた。すぐに、ティリオンが鼻を鳴らして停止した。
アリエンは相手をじっと眺めた。午後の光に輝く淡い金髪、透き通って青くさえ見える肌、縫い目の一切ない、ドレープのついたくすんだ金色の衣装。足は裸足で、手に大きな弓を持っている。まさしく言い伝えられたエルフの姿である。ただしその琥珀色の瞳は敵意に満ちていた。
「あなたは、フィデリスの親類か何かなの? 随分、彼女とは雰囲気が違うけど」
《私? グリンディルそのものよ、こっちではフィデリスと名乗っているみたいだけど》いやな微笑を浮かべた。《星の民ってね、辛い目にあうと死んじゃうのよ。あんたたち人間というのは、狩りで動物を殺し、親類同士で憎みあって殺し、裏切り、騙し、衝動的に他人を殺してる下劣な生き物よ。そのくせモンスターを下等だ悪だといって殺して、それが勇者ですって。はん、そういうこと全てが星の民を死滅に向かわせてるのよ。・・・・・・それで、フィデリスはそれでも黙って死ぬかもしれないけど、私はごめんだわ》
そう言うと、きりきりと弓を引き絞った。アリエンは矢くらい叩き落せるのでダガーで防御の構え。だがそれを見ると、相手は標的をティリオンに向けた。そうしてはっとしたアリエンを見てほくそえんだ。
《本性を現したわね、ちゃっちゃとやりなさいよ。所詮は下劣な生き物なんだから殺し合いがお似合いよ!》
アリエンは思わず馬から飛び降りてティリオンをかばってその前に立ち塞がった。
「何と言ったらあなたを説得できるのか、私にはうまい言葉が見付からない。これからだって、仲間を助ける目的でラセツを殺さざるをえないと思うわ。でも人間は、必ず下劣なことだけをするんじゃない。ただ……」
《ただ、生きるのに精一杯で、一生善行を続けていけるほど強くないだけよ》
アリエンの声が2重になって響いた。そのときアリエンの内側にいた誰かが、アリエンを手助けして返答したのである。それは意思の強そうな、明るい、気持ちのいい声だった。そしてその姿が、逆光に照らされた丘のに浮かび上がった。それは、短めの美しい槍を手にし、黄金の瞳をした、伝承のままの〈太陽の乙女〉。真っ先に目に付くのはその見事な赤毛である――炎のように波打ってはいるが炎の強烈さはなく、例えば晴天の日の出のときの金色と混じる、あの美しい赤なのだった。 《エラノール!》
エルフが驚いて呟くのを聞いてアリエンも目を見張った。
《悪さはやめなさい、ダークネス! 知れぬとでも思うの、猟師が獲物を探しに来ているその森の一角へ、わざわざアヴァンレッドを誘いこんだ張本人はお前だったこと。そうやってグリンディルがわけもわからず絶望で自ら死ぬように企むとは! さあ、いい加減に本性を見せるのはお前のほうよ!》
エラノールが強い調子で命じると、途端に光がスパークした。ダークネスと呼ばれ叱責されたエルフは弓を取り落とし、黒い煙の中で一匹の、翼を持つヘビに変化した。色は真珠のようで、一見すると極悪な存在とも思われない。そして実際、エラノールはこのヘビを殺す気がなさそうだった。
ヘビは、さきほどとは打って変わったキイキイ声で言った。 《なぜ、こんな娘の中に、エラノール!?》
《この世界を守るため、星の導きとさるお方の慈悲でここにいるのよ。わかったら、消えなさい!》
エラノールが、精巧な装飾のある篭手をつけた右手を素早く振ると、ダークネスは急いで飛び去った。
アリエンは突然現れた赤毛の乙女を不思議そうに見詰めている。エラノールは騎士のようにアリエンの前に片方のひざをついて言った。
《アリエン・クラウディウス、よく聞いて。グリンディル――フィデリスが死ぬほど悲しんだのは、人々の所業に絶望したからではない。一緒にきた馬のアヴァンレッドが、テンの姿で森で暮らしていたとき、猟師に殺された、そしてそれは自分のせいだと思ったからなの。アヴァンレッドはわたしの天馬だった。……アリエン、フィデリスは身代わりでアヴァンレッドをこの世界へ戻そうとしている。完全にないはずの全知があなたとの接触で断片的に戻っていて、あなたが次にアヴァンレッドに乗るべきことだけは分かっているからよ。けれども、虹を見ずに勝手に命を失えば、彼女はオーロラの向こうへも帰ることが出来ずに、ポドールイ近くの生者と死者の世界の境界を永遠にさまようことになるでしょう》
その声は落ちついて静かだったが、エラノール自身には手が出せないという、やりきれない想いをこらえているとアリエンにはわかった。だとしても、その言葉には謎が多過ぎる。
「天馬にわたしが乗るべきってどういう意味? それに、虹はあれからいくつも見たのに、どうしてフィデリスがそんなことになるの? どうすればいいですか、教えて! 」
アリエンの必死の顔つきに、エラノールはやさしく微笑し、立ちあがった。
《ここでわたしと話したこと、ダークネスが言っていたことを覚えておいて。それだけでいいわ。あなたなら、仲間も、グリンディルも、この世界の日常も、きっと守れる》
そう言うとエラノールは赤い髪をなびかせてゆっくりと丘を上った。
「待って、エラノール!」
アリエンは追ったが、エラノールの姿は不意に差して来た日の光にさえぎられて掻き消え、その光がおさまったその向こうには、ラセツに向かって術を放つ仲間2人がいるのが見えた。術はかなり強力で、ラセツは唸り声を上げて倒れたりするのだが、また立ちあがり、ひたすら2人を追いこんでいる。アリエンの槍がきけばいいが、それでとどめはどうするのか。このまま合流してもアリエンに策はない。だが、
――間に合った!
アリエンはとにかくそう思った。ティリオンに微妙な声の調子で合図し、鞭なしのまま、彼女は全速力で丘を駆け下った。
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