The book

 ピドナ王宮から森を抜け、市街地を西へ抜けると、風よけの石垣で丁寧に囲まれた、できたばかりの広い農地が出現する。そこは魔王殿の敷地に続く寂れた海岸で、長い間不毛の地であったが、シノン開拓の手法を応用した石組みを連ね、根気良く土壌を改良した結果、メッサーナが誇るヤヴァンナ=ケメンターリという名の大農場と同質の作物を植えられるようになっていた。
 この農地の管理をしているのが、クラウディウス家のルーシエンである。もっとも、秋にシロツメクサを植えて地表を保護し、あとは植えつけの季節を待つばかりにしたので、今頃は農地に人は入らない。それでも東風が強い日には潮を警戒する必要があることを、誰よりも承知しているのもまたルーシエンであった。
 新しい農地の東側では、湾に面した絶壁を見下ろす。そこを歩く彼女の背後では潮風が巻きあがり、殆ど霧のように辺りを覆い、傍には従者ではなく、大型の狼犬フアンがぴったりとついている。こんな風に、聞こえるものは海と空の轟音だけという風景の中に立つ、母親譲りの黒髪と透明な碧眼を持つ令嬢の姿は、ずっと古い時代にメッサーナの岸に現れた精霊と形容するに相応しいものであった。

  実際には毎日のように番人が回っているのだが、この石垣はシノンの親友の助けでできたものでもあり、ルーシエンはどうしても自分で見回りたかった。今一番大事なのは、春までこの新しい農地を守りきること。メッサーナ王国は、他国の飢饉にさえも備えているという自負もある。彼女は、まるで恋人に会いにいくかのように早足で石垣の終わる海岸を目指した。そして勿論、その頭の中は《オレンジをどういう配置で植えつけ塩害を避けるか》で一杯なままだ。
 いよいよ農地のはずれまで来ると、一層風が強まり、下の岸壁からの波飛沫が顔までかかかりそうになった。耳を寝かせて風をやり過ごしていたフアンは、頭上をかすめて群で飛ぶカモメをうるさそうに見上げている。
「いいから、行くわよ、フアン」
 笑いながら石垣に沿って農地を横切ろうと歩き出したとき、ルーシエンは、甲高いカモメの声に混じった、遠い呼び声に立ち止まった。
「ルーシエン様!」
 再び声がし、石垣の老番人が、帽子を必死に押さえながら、風下からやってくるのが見えた。手に茶色の箱のようなものを握っている。ルーシエンは風をよけられる場所を指差し、彼を招いた。
「どうしたの? その箱は一体何?」
 好奇心一杯で、ルーシエンは近づいてきた番人に尋ねる。
 番人はまずは腰を叩いて伸びをして、と、ルーシエンを待たせてから、箱のようなものを慎重に地面に置いた。
「箱じゃありません、本ですよ。それもどえらく古い本で」
「どこにあったの?」
「石垣の終わりのところ、ヤギが蹴って崩れるといけないから補強に石を探したんです。なかなか見つからなくて、魔王殿の敷地からよさそなのを掘ってみたんで」
ルーシエンは呆れた。
「あそこはまだ安全とは言えない場所なのよ。何か出てきたらどうする気?」
番人はにっと笑った。
「それで、これが出てきたんで」
 ルーシエンはわざと顔をしかめて見せ、それを受けとって開いてみた。
 羊皮紙だろうか、かなり分厚く、腐食が進んでいる。最初のページらしきところに、走り書きのようにこう綴ってあった。

  Nemesis

「これが作者なのかしら」
「わしにはそういうことはわからんですが」番人は真面目に言った。「はっきりしているのは、これ以外、その本の字は読めんということです」
ルーシエンは、自分を見上げるフアンの頭を撫で、しばらくめくってみた。
彼女にも殆ど解読できる文字はない。ただしこれは、ロアーヌの古い言語に形が似ている。王宮の学者に聞くのが良いだろう。それとも――?

「そうね。アンゼリカなら、読めるかも知れない」
彼女は呟いた。

 その日の夕刻、ルーシエンは王宮で女王に謁見していた。
とはいえ、ルーシエンは個人的に妹として、女王ガラドリエルの意見を聞きたかったに過ぎず、女王もまたこの日の執務を終えて、ルーシエンに会えることを喜んでくれたので、雰囲気は普段の謁見よりずっとくつろいだものであった。

「そなたの石垣による農地の保護は上首尾のようですね。うれしく思います。わらわに相談事というのは、その農地のことですか?」
女王が優しいいたわるような口調で尋ねたので、  ルーシエンは安心し、古びて腐食した本を差し出した。
「実は、魔王殿の敷地から、このような書物が掘り出されました。王宮の学者に尋ねましたが、内容を解読することは出来ぬという答えでした。なぜならば、この書物の言語はロアーヌのものですが、文法がひどく崩れており、正確に解釈できる文ではないからだそうです。この本を、国外へ送ることをお許し願えるでしょうか?」
 女王はゆっくりと肯いた。
「アンゼリカ・ノールへ送りなさい、ルーシエン。彼女には、この書物が読み解けるはずです」

 ルーシエンは驚いて目を見開いた。
 アンゼリカなら読める、と自分が思ったのは、これが古いロアーヌの言語で書かれているから、ふと学者肌の親友を思い出したというだけのことである。女王は、そんな単純な勘を頼る方ではない。

――では、どうして?
 だが、ルーシエンは聞かないことにした。
 母にも、そしてこの偉大な姉にも、どこか人ではない感じを受けることがある。
 女王がそう言われるのならば、自分は理由を知らなくても構わない。ルーシエンにとっては、疑念よりも、そういう確信のほうが強かった。

「そのようにいたします」
 ルーシエンが素直に会釈しかけたとき、女王は言葉を継いだ。
「もうひとつ、言い添えましょう。その本が汚いからといって、表紙を変えたり、文字をなぞったりしてはなりません。まだ、その本は楽しみのためにだけ読むべきものか、もっと意味のあるものなのか判然としていないのですから。いいですね?」
「は、はいっ」
 ルーシエンは思わず咳き込んで答えた。全くその通りのことを、彼女はしようとしていたのだ。そうでもしないと、贈り物としては粗末すぎると思って――。
 ルーシエンが顔を赤らめながらそっと見上げると、玉座の女王は、企みごとに向かない妹の顔を見て、姉らしく穏やかに微笑んでいた。

 


*ネメシスの書は、本編の背景説明をストーリー仕立てにしたものなので、これが「発見」編です。ルーシエンの両親はピドナの2人で、姉上はメッサーナの女王ガラドリエル、すぐ下の妹はアリエンです。
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