解読1――天使と月の書物

 ロアーヌ宮の、円形をした書庫にいた、アンゼリカ・ノール、シノン男爵令嬢の姿は忽然と消えていた。夜だというのに、どこへ行ったのか。シノン男爵と、ロアーヌ王陛下じきじきにも彼女の世話を命じられていた、書庫管理官のヤングは、このとき明らかに寿命が縮んでいっていると感じていた。

 アンゼリカは、今年16歳。彼女の容貌そのものは、美しい母君によく似ているが、肌は白く、髪は若草色の巻き毛であるせいか、その美しさはどこか、見事な彫刻か陶器のそれを思わせるものがある。兄のフェリックスと共通するのは、物怖じしないが品位のある立ち居振舞い、そして違うところは、信じられないほどなにかに熱中するという点であった。
 小さい頃、彼女はドラゴンが飼いたいと両親にだだをこね、実際に1匹のワイバーンを手に入れてなつかせ、とうとう書簡を運ぶように調教してしまった。これにはさすがのミカエル王も苦笑したのであるが、しかしながら、最近になって、兄や友人と素早く手紙を交換できるのも、そしていわくありげな書物を手にすることになったのも、わがままの産物であるワイバーン便のおかげと言えなくもない。
 そしてこんなアンゼリカは、古代文書の解読が最も得意とするところ。ルーシエンに貰った書物に熱中するのは当たり前のことであった。

「アンゼリカ様ーっ」
 ヤングはしわがれた声を張り上げ、白髪頭を振りたてて、書棚がズラリと3階までも並ぶ書庫中を探した。ちなみに、彼はロアーヌの高名な歴史学者で、もう70の坂を越えていて、つまりちっとも『ヤング』ではないので、王宮書庫を螺旋階段で行き来するだけでも骨が折れるのだ。
「ヤング先生?」
 書庫最上階の屋根裏から、そんな声が聞こえた。そこは、本も資料も置かれてない本当の屋根裏で、王宮の屋根に通じた小さな明りとりの窓があるだけだ。ヤングは首をかしげ、はたと思い当たることがあって、血相を変えて屋根裏へ飛びこんだ。
 案の定!
「ここでーす」アンゼリカは窓から足先だけをブラブラとさせて見せる。
「お、お、おやめください。そこは足場もろくにない屋根ですぞ。姫にもしものことがあれば、わたくしは、逆さ磔を自分から陛下にお願いせねばなりませぬ」
 その前に、ショックで心臓が止るかもしれないが、とヤングは思った。
「そうなの?それはごめんなさい。でもこの程度の傾斜ならそんなに危険なことはないわ」
アンゼリカはふざけるのをやめ、窓からするりと屋根裏へ降り立った。手には、ピドナから送られた例の書物がある。
「ま、コホン。…お分かりいただけたなら結構と存じます。ところでご本のほうは何か読み取れましてごさいますか?」
 ヤングの丁寧すぎる口調に少し辟易しながらも、アンゼリカは天使のような微笑を返した。
「だめですね。最初の数ページしかわかりません。それも、部分的に意味不明なところがあるし」

 こともなげに言うのでヤングは二の句が継げなかった。その本は、ピドナの学者総出で挑んだ挙句、解読を諦め、ロアーヌでもまた、解読不能と見捨てられた遺物だったのである。それを、手にして半日で、アンゼリカは冒頭を読んだというのだ。
「読めたところを聞いてくださいね、先生」
 アンゼリカは言った。
「拝聴しましょう」ヤングは眼鏡を直して重々しく答える。
「まず、途中に唯一読み取れる現代と同じ文字でネメシスと書かれているのは、作者の名前ではありませんね。これは、古い時代の伝承に現れる、破滅をつかさどる神の名だろうと思います」
「破滅の神?ふむ、そのような神は聖王の時代にも魔王の時代にも文書に現れたことがない、年代不詳の一部の伝承にしか出てこない名ですが。それでは、これは歴史書であるという我々の見解とは食い違いがありますな?」
「内容を読んでいないうちはそのような見解は無意味では?」
 アンゼリカはピシリと言った。
 彼女のこうした容赦ない物言いには、年齢にそぐわないほどの威厳がこもることがある。ヤングが恐縮して講釈を諦めたので、彼女はページをめくり、指で文章をたどりながら説明を始めた。

「冒頭の、概要はこうです。
語り手は、ある王国の神官の息子で、書記官をつとめていましたが、王国は恐ろしく強大な敵の前に敗れ、滅亡してしまった。その経緯を記録として残したい、ということのようです」
 アンゼリカは本から目を上げ、茶目っ気の混じった笑顔で付け加えた。
「文法的に混乱した文のはずなのに、どうして読めたかお聞きになりたい?手がかりは月よ。この、ページの上部分、なにか装飾が描かれているけれど、私にはどこからどう見ても月だった。だから、月明かりの元で開けば何か読めると思ったんです」

 深い緑色の瞳をキラキラさせるアンゼリカに、ヤングは、それならそれで地上でやりなさいと叱ることも忘れて感心していた。なるほど、天体は、時代に関わらず何かを伝えることのできる共通言語である。そこにいち早く気付くアンゼリカの柔軟性を、書庫に篭るばかりの学者は持たなかったのだ。
「それで、混乱した文法は解決できたということですかな?」
「ええ、月明かりのおかげで隠し文字が現れて、解釈が確定できましたから。また、言語の種類を推定できたのもこのときです。あとは、意味不明な語をどうにかしなくてはいけないわ。アナグラムかも知れないし、逆さ言葉かも知れない。しかも、雲で月が隠れると文字も沈んでしまうの。読み通すには、やはりかなりの時間を要します」
「意味不明な語とは、どんなものでしょう?」
 アンゼリカは指で単語(とも言えないような崩れた文字であるが)を指し示した。
「…心優しき、忠実なる巨人たち。闇を駆逐せし、太陽の乙女。最高神に仕えし竜王たち。筆者は、これらの存在が王国の滅亡時に立ち去ったと嘆いているんです。冒頭で、叙事詩のようにそんな嘆きがある。この意味をつきとめたいわ」

 ヤングは眼鏡を外し、穏やかに微笑んだ。
「姫ならば、必ずや解読を成し遂げられましょう。これがもし破滅や滅亡を書いた手記ならば、今のアビスとの戦いにも何か関わりがあるのかも知れませぬ。わたくしめも、及ばずながらお手伝いさせていただきまする」
 アンゼリカは嬉しそうに、よろしくお願いします、と言った。

 こうしてロアーヌ宮書庫で、アンゼリカならではのユニークな方法で、いわば「知の戦い」が始まったのである。だが、この書物こそが、世界のありかたそのものを読み解く鍵であろうとは、このときの彼女にも知る由はなかった。

 


ネメシスの書の冒頭を読んだ、という話ですが、今後はエピソードに留まらず、手記そのものの文も盛りこんでいきたいです。よろしくね、アンゼリカ(笑)

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