薔薇園が燃えた日

「ジャルド、逃げなきゃだめだ。近衛兵団が撃破されてるんだ、のこのこ出ていく馬鹿があるかっ」
 先輩の園丁が、クラウディウス家の裏門から中に戻りかけたジャルドの袖を掴んで言った。
「あんたは逃げろよ、オレはあの苗だけとってくる」
 若者は無謀にも庭園に向かって駆け出した。
 外は闇だが、それは厚い雷雲が覆い尽くしていたからで、瞬く間に大粒の雨が降り出した。
 ジャルドは生垣を越え、敵兵をかわしながら薔薇園に向かった。そこは屋敷に近く、中で悲鳴や激しい物音がしている。そして緑色に愛らしく塗られた鉄の小さな門の向こうに、炎の気配を感じてジャルドははっとした。
 ルートヴィッヒの手下どもは、屋敷に入るついでに薔薇園に火をかけていたのである。油までまいていたらしく、雨が降っているのに火の勢いは強いままであり、手入れされた見事な枝振りの数種の古典種が煙の中で首を垂れ、花弁を焦がして無惨に散っていく。
「ちくしょう!」
 ジャルドは呟いた。そして、炎の間を縫って、目指す最も大切な1本の苗を探した。
 あった! 手を伸ばしかけたとき、傍の作業小屋が焼け落ち、彼のほうへ倒れ掛かってきた。ズザザ・・! よけたものの火の粉がかかりそうで苗に近づけない。そのとき、後方で声がした。
「おい、こっちだ」
 先輩だった。逃げていなかったのだ。
 ジャルドが駆け寄ると、上着で覆っているものをそっと開いて見せた。
「これだろう、お前の忘れ物は。さ、もう行こうぜ」
 シンプルなポットに入った、華奢な小ぶりの苗は、先端に小さな蕾をつけていた。そしてその蕾は小さいながらも凛とした剣咲きの形を作り、暗褐色からぶどう酒色、さらに鮮紅色に花びらを染め上げている。
 苗を受け取ったジャルドは身の危険も忘れて、闇の中、稲光に照らされる蕾をほれぼれと眺めた。威厳とともに優しさを備えたこの新種を屋敷の主も大層気に入り、傍で微笑んでいる娘を見遣ってこう言ったものだ。
「この薔薇にそなたの名を与えてもよかろう。ミューズ=クラウディア・クラウディウスと」
 そして2人の園丁は身に余る光栄と、帽子を手に取り、ふかぶかと頭を下げた。
 ……
「何してる、逃げろ!」
 その声と低いバネの弾ける音でジャルドは我にかえった。稲光は薔薇園の芝生の上でうっとりと苗を見詰める阿呆の姿をも敵兵の前にくっきりと照らし出し、その彼を庇った先輩はボウガンに胸を貫かれた。驚いて見るが、水溜りに倒れこんだ死体はもはや木偶のようだった。たった今まで話をし、人格を持った存在であったことをも否定されるほどの、その唐突な虚脱感――。
「うあ、ああっ」
 ジャルドはうめくように悲鳴を上げ、がくがく震える足を無理やり動かし、苗を持ったままめくら滅法走り出した。
 屋敷をどうやって抜け出したか分からない。彼は街路を走りぬけ、広場に出てしまったので慌てて傍の小路へ飛びこんだ。後ろから聞こえる雨音は足音に、足音は全て追っ手のものに思え、とにかく小路から小路へ。さらに水路を渡る小さな橋を駆け抜け、息が切れてとうとう立ち止まると、海の匂いが肺一杯に染みこんできた。港――行き止まりだ。

   立ちすくんだジャルドを、造船所の徒弟が乱暴に引っ張って、今にも出航しようとしている小さな船に乗せた。良く見れば造船所の面々と、その家族が乗っている。海賊ブラック一味と通じていたと噂のある連中らしく、一癖ありそうな大男のオヤジがリーダーであった。けれど、長年クラウディウス家に仕えてきた彼ら造船技師たちは、憎っくきルートヴィッヒのためにはイカダひとつだって作る気がないという。それでは粛清されるだろうから逃げるのだ。
「ミュルスへ避難するぜ。ほとぼりが冷めるまでな」
 リーダーのオヤジがジャルドに言った。
 船は手漕ぎで、敵兵の見張りに見つからないように静かに湾に沿って進み、やがて沖に出た。悪天候だった割には波が早々と落ちついてきている。シートをかぶって船にしがみついていた者たちも、雨が止んだので顔を出し、遠ざかる港町を振りかえった。

 ピドナの町は、海上から見ても炎に包まれて明るく、赤と黄金の光が海面に反射し、さらに遠い空に去りつつも稲光が時折注いでいる。その様子は、クラウディウス家の最期を惜しみ、その悲劇的な退場に喝采を送っているかのようだった。
 ジャルドは、彼をかばってくれた先輩と美しい薔薇園を想い、涙がどうにも止らなかった。そして屋敷の主人たちがどうなったのか、あの無邪気で優しい令嬢はどうなったのか、それを想うだけで胸が痛んだ。

「クラウディウス家の薔薇園が燃やされてしまった」
 彼の呟いた一言は、重く悲しげな口調で、ピドナが失ったもの全てを抱えこんでいた。船の奥から小さなすすり泣きが漏れた。
 力のない大衆は支配者を選ぶことが出来ない。敬愛する名君を失い、非道な反逆者が王になるとしても、大衆はその間を水草のようにユラユラしながら、結局は明日の糧を得られるかどうかで人生の殆どをすり潰すしかないのだ。
 しばしの沈黙の後、リーダーのオヤジが口を開いた。
「薔薇園は燃やされた、そのことを決して忘れるな。なあ、ジャルド、お前はその薔薇をちゃんと育てて、いつかクラウディウス家のどなたかを見つけ出して献上することだ。オレたちはまた船を造るぜ、ルートヴィッヒや非道なことをする全ての奴らに負けないという意気を見せつけるために」
 ジャルドは顔を上げ、持っている薔薇の苗を抱きしめた。オヤジはというと、波間に今にも落ちそうな2人の小さな子供を膝にひょいと乗せ、続けて言った。
「お前たち、薔薇園を燃やした呪わしい赤色を忘れるな。懐かしいピドナを焦がすあの炎の色を! 次にオレたちが造る船は、アイアンサイドをあの赤で塗りつぶす。こいつは闘うための船だ。そして、誤った権力に立ち向かうガッツを持った奴しか、この船に乗ることはできないんだ」
 膝にのっけられた2人の子供は大人しくオヤジの話を聞いていた。正確には、片方は居眠りして静かだったのだが、もう1人はちゃんと黙って起きていて、そのオヤジを見上げる瞳は輝いていた。

「……その船の名は、もう決めてあるのかい?」
 涙を拭い、つとめて微笑もうとしてジャルドが言うと、オヤジは即答した。
「船の名は、バーニング・ブライヤー号。進水式に来るのを忘れんじゃねえぜ、ジャルド」

   それからオヤジは、ジャルドがどんな顔をしたか見ようとはせず、子供らの頭をくしゃっと撫でてから船の中央に立ちあがり、オールの1本を掴んで一同を見回した。
「そら、みんなへこたれずに漕げ! ミュルスはまだまだ先だぞ!」――

 メッサーナはこの日を境にルートヴィッヒの手に落ちた。しかしながら、ルートヴィッヒが暗殺というピドナ人の最も嫌う手段を用いたせいで、被支配の底辺にいる民の間でさえ、数知れない再起と抵抗の誓いが生まれていた。
 ジャルドが手にしたわずか1本の薔薇苗は生き残り、後にその名に相応しい花をつけて令嬢本人に返されることになる。そしてまた、ジャルドを勇気付けた船匠の言葉も、見事に実現されることになるのだ。


2005/09/21