夜の航海<2> 
触手
―トリオール海―

「終わったんじゃないんですか」ヤンは情けない声を出した。
「今度は大物よ。恐かったら船室にいてもいいけど、船底が真っ先にやられそうね」
 ヤンは声の主を見上げた。ドレスが濡れてしまっているが、サヴァは相変わらず気品あふれて見えた。
「僕も戦います…術で」
 サヴァはいかにも年下に対するように微笑した。「頼もしいわ」
 衝撃は唐突に来た。ヤンはメインマストにしたたか顔をうちつけた。サヴァは中心にくくりつけてある小型ボートの片方が転がり落ちてくるのを素早くかわし、船首へ急ぐ。
「何なの?」
ファルコは全く怯えた様子のないサヴァに少し驚きながら答えた。
「変異したヘプトパス……ここまで巨大化したものは見たことがないが」
 そう話す間にもヘプトパスは砲撃をものともせず、船を底から持ち上げきりきりと締め付け始めた。
「あの足は斬っても再生するわ。完全に倒す方法は?!」
 足の一本に折られた杭を打ちこんだファルコの答えは簡潔だった。「火薬を口に叩きこんで木っ端微塵にすることだ」
 見れば、早くも足から杭を外したヘプトパスが、残った触手のような数本の足で船に這いあがろうと、アイアンサイドで時々滑りながらも向かってくる。そうして、火薬を船室から運ぶよう命じているマリノに狙いをつけた。
 ビチャッ!
「うへえっ」マリノは墨で真っ黒になって声を上げたが、彼を指差して笑おうとしたオリオールにも墨は飛んできた。
「レアな刺繍つきのパンツに……よくもやったわね、このタコ!」
 何か方向の違うことに腹を立て、オリオールは墨仲間のマリノに怒鳴った。
「火薬はたったこれっぽっちなの!?」
「無論まだ数樽はある。しかし風は逆風、怪我人が多くてオールも使えねえ! 考えても見ろ、火力が強すぎたら船まで逃げ遅れて巻き添えだ」
 オリオールはヤンを振り返った。ヤンは真っ黒になった彼女を見てぷっと吹き出しそうになったが、急いで自分を押さえこんだ。

 ヘプトパスはファルコとサヴァの剣によって船に絡みつけずにじりじりと後退していた。だが触手は早くも再生し、近寄りすぎたサヴァに向けて振り下ろされ、ファルコは咄嗟に彼女を庇って巨大な触手で肩を打たれ床に転がった。そのすぐ傍に、触手にねじり倒されたフォアマスト(前方の帆柱)が落ちかかる。
「ファルコ!」サヴァは驚いて叫んだ。そして脳裏に何かが、断片的に甦るのを感じた。

 《あの子を、サヴァをボートへ!》
 ――甲板のきしむ音、人々の悲鳴と砲撃の振動。この痛いほどの恐怖と憎悪はどこから来るのか? それともこれは、養父に聞かされた難破の話に無意識に尾ひれがついた偽の記憶だろうか?――

 サヴァが目を上げると、触手を伸ばし、自分を標的にしてヘプトパスが迫っているのが見えた。
 記憶を探ることなどどうでもいい、唯一確実なのは、この触手こそが、いつかずっと前も彼女の敵であり、彼女から何かを奪ったということだ。こんな、こんな汚らしい触手が!
 大きく開かれていた鹿のような目に攻撃性が宿った。彼女は七星剣の鞘を払い、叩きつけてきた触手の上に飛び乗り、そのまま素早く敵本体に向かって走り寄る。
 ヘプトパスは墨を吐いたが、サヴァはその頭上に跳んでいた。素早く剣を逆手に持ち替える。
「もらった!」稲妻が反射して刃先が妖しく輝き、剣は自らも白い光を放ちながらヘプトパスの膨らんだ先端部分を貫いた。
 ヘプトパスは苦痛に奇声を上げ、大口を開けた。

「サヴァ、どきなさい!」見るとオリオールとマリノが他の水夫とともに、大量の火薬を縛り付けたフォアマストを構えていた。サヴァはひらりと甲板に降り立つ。ファルコも船首に立ってタイミングを見計らっていた。
「いいぜ、お頭」
 見張り台から火をつけたボウガンを構え、ジャーヴィスがそう言ったのが合図だった。残るマストに帆がはためき、フォアマストは口を開いて浮かぶヘプトパスに思いきり深々と突き刺さり、ヤンが帆に向かい真剣な顔で詠唱を始めた。
 ジャーヴィスの太矢は火薬の束に命中し、ブスブスとくすぶる音が聞こえる。

 オリオールとマリノはヤンを振り返った。ヤンの手からは灰色に固まった風のパワーが空中に浮上した。ジャーヴィスは急いでマストを滑り降りた。
 ブンッ!!
 空気を切裂いた風の球体は双頭の龍の姿に分かれ、帆に凄まじい勢いでぶつかり破裂した。途端に小型の竜巻が帆を激しく叩きつけ、帆を支える綱は余りの威力にじりじりと焦げ付いた。船は海面から跳び上がるように、もがくヘプトパスから遠ざかっていく。やがてその口から火花が散るのが見えた。
「伏せろ!」
 ファルコがヤンを床に倒しながら怒鳴った。爆音が響き、熱い爆風が背後から襲ってきた。船は船尾を焼かれながら、帆をぼろぼろにしながら、それでも西北西へと突っ走った。

 船がピドナ沖にたどり着いたとき、靄の中で夜が明けようとしていた。船上はまだ焦げ臭く、帆は半分以上が使えなくなり、船尾は浸水がないのが不思議なほどに大破していた。
 ファルコがオリオールから残りのオーラムを受け取り甲板に来ると、もうドレス姿ではないサヴァが一人で悲しげに海面を眺めていた。
「どうした?」
「ロアーヌに着く前にドレスを駄目にしてしまったから。ごめんなさい」
「謝ることはないさ、お前はよくやった」ファルコは優しく言った。「この船の恩人だ」
「じゃ……父さんが知ったらふてくされるってだけね」

 オリオールがそこで声をかけた。「ドレスは私が新調させてもらうわよ」
 それを聞いたサヴァはさっと表情を硬直させ、やや大人びた感じになった。
「せっかくだけど、そこまでしてもらう理由はないと思うわ」
「いいから聞いて。モンスターによる嵐の晩に船を出すことになったのも、私が急いでいて強引に賭けに出たからよ。それでなければ嵐がおさまってからミュルスへ行けて、ドレスが濡れることもありえなかったでしょうね。それで、私はあなたの大切なロアーヌ行きを遠回りにしたのかしら?」
  
 大切なロアーヌ行きだったのだろうか? サヴァは一瞬考えたが、きっぱりと答えた。
「いいえ、私は志願兵よ。ロアーヌは経由する予定だっただけで、目的地はあくまでファルスだわ」
「それならピドナでドレスをオーダーしておいて、一緒に目的地に行けば早道よ、どう?」
 サヴァは意外な言葉に驚いた。「あなたも義勇兵志願なの?」
「そう、それに彼もね、冒険して勇ましい男になるそうよ」
 オリオールはくたくたで居眠りしているヤンを示して目配せした。サヴァはくすっと笑い、もう細かくこだわらずにオリオールと握手した。
「そういうことなら、よろしく」
「こちらこそ、サヴァ」 
 それからオリオールはファルコにも向き直り、あの金貨の詰まった皮袋を取り出した。
「あなたにも、ファルコ。私は船賃は払ったけれど、モンスター退治とB.B.をもとの美人にするための代金はまだよね」
 そして皮袋をそのまま手に握らせた。その重さにファルコは断ろうとしたが、文句があるの?と気押されて結局受け取ることになった。そして明るくなる前に、オリオールたちは海賊船を後にした。

 ――それから1時間ばかりたって。
 B.B.号はゆっくりとピドナ海域を秘密の港へと向かっていた。波は穏やかで風は応急処置で繋げた帆に対し適度に順風、そして辺りは静かで、船体のきしむ小さな音さえも聞こえていた。
 船首で前方を監視するファルコの傍にマリノが来て言う。
「賑やかな連中だったなあ、やたら面倒ばっかり起こしやがったが。もう会うこともあるまい?」
「どうかな。モンスターのいる嵐の海に平然と出ていく連中だぜ? 俺の勘では、いずれまた乗せろって言ってくるよ」
「まただと?そりゃ、……願い下げだね」
 そうして、「おやー、イルカだ」と、マリノは口笛を吹きながら船首を離れていった。
 ファルコは相棒を見送り、軽く声を立てて笑った。見上げると空は明るく、夜明けにはあった靄も晴れ、海鳥の鳴く声と心地よい潮風が彼の頭上を通り過ぎていった。
  

=夜の航海<終>=