指輪の代価

 ココアが切れた。アンナは窓の外を見て、早くも雪がちらついていることに気づき、もっと早くストックを買っておけば良かったと思った。
 兄は寝ているが無用心ということもない。天文台には星の資料はあっても金目のものはないのだから。アンナは「道具屋まで」とメモを残し、小型の馬車で町へと下って行った。途中、雪がさらに強くなってきた。まだ白水の月なのに、今年は冬の訪れがやけに早い。
 道具屋はアンナを愛想よく迎えたが、ココアの箱を持ってきた主人の顔には青あざが出来ていた。
「一体、どうしたの?」アンナは思わず聞いた。
「あの生意気なエルフにやられたんですよ」と、おかみさんが代わりに答える。アンナがふと店内の棚に目をやると、おかみさんはその視線を察知して品物を手に取った。
「見て頂戴、最高の黒テンじゃない? いつも神酒で取引させてもらっているから、冬に備えたらどうかとこれを見せに行ったのよ、わざわざねえ」
 アンナはカウンターに置かれた、つやつやした毛皮を眺めた。確かに高級品には違いない――見事な新しい毛皮は剥製にされた頭部がついたままで、目には磨かれたオニキスがはめこまれ、口に留め金がついて、首に巻いて尾を止めるように作ってあった。もっとも今は破損して価値は大分下がったようだが。
 これがヤーマスあたりでは流行なのだと、主人は言った。しかし、あのフィデリスがこれを喜ぶと彼らは本当に思ったのだろうか? アンナは溜息をついた。神酒の取引で小金を溜めたに違いないエルフに高い毛皮を売りつける算段ではなかったのか? 夫婦によれば、私の顔見知りのテンをよくも、とフィデリスは叫んで花瓶を投げつけたと言う。アンナには、モンスターさえ庇いたがるフィデリスがつぶらな瞳のテンを殺され、それを得意げに見せられて荒れ狂う様子がありありと想像できた。

「それ、おいくらですか?」少し考えてからアンナは言った。
「え、買っていただけるの? それはありがたい!」

 安くなったとはいえ、アンナは毛皮を買えるほど現金は持たなかったので、母の形見である指輪と交換で手に入れた。それからそのまま森の小屋へと馬車を走らせた。やがて森に入ってしばらくすると辺りが暗くなってきた。いつものことだが誰ともすれ違うことはない。そしてアンナはフィデリスの小屋に入ろうとして、床をきしませる数人の足音と人声を耳にした。
「よしあった、この銀貨はそっくり頂くぜ!」
「こいつは? 別嬪だから高く売れるぞ」
「よせよせ、物凄い咳をしてやがる、連れ回すうちにくたばっちまうさ」
 明らかに野盗の声だった。アンナは驚いたが、そこでフィデリスがかすれ声で言うのが聞こえた。
「……言いたいことはそれだけ?」
 ざわつく男たちがびくりとして静かになった。アンナは窓からそっと覗いた。フィデリスは続ける。
「『冬のオススメ』を持って来ないだけマシだけど、あなたたちも要するに、お金? そんなに銀貨が欲しいなら、私は別に使わないから――」エルフの金髪が風もない室内で波打った。そしてうるんだ目で野盗を睨みつけると、今度はひときわ通る声で叫んだ。「いっそ残らず持っていくがいいわ!」
 野盗たちは、その迫力に持っていた斧を取り落とした。だが逃げるにはもう手遅れだったらしい。フィデリスが手をかざすと同時に、木箱に無造作に溜められた銀貨が宙に浮き、強烈なスピードで彼らの顔面に叩きつけたのである。
 ビタビタビタビタビタビタビタビタビタビタビタビタビタビタビタッッ!! 
「ひぃぃっ、痛い、痛い痛いっっ」
 顔面に銀貨の型を作りながら、野盗たちは歩くこともままならず、這うようにして小屋を逃げ出した。銀貨はそこへも追いつき、雹のごとく頭上から襲いかかった。アンナが中に入るときには、彼らは銀貨を拾うことも忘れ悲鳴を上げて走って逃げる後姿になっていた。
「フィデリス」アンナは呆然と部屋に立ち尽くす変り者の友人に声をかけた。「どこもケガはない?」
 フィデリスはちらとアンナを見て頷き、次の瞬間コトンと倒れた。アンナはすぐに支え起こしたが、顔色は真っ青で体が冷え切っており、耳の先にしもやけができていた。
「こんなに薄着で、無茶するからよ。天文台でココアでも飲んでちゃんと暖まらないと」
 アンナは優しく小声で言い、気を失ってしまったフィデリスを抱え上げた。その体はまるで羽根のように軽かった。

 深夜、予備の毛布を取りに行っている間に、ヨハンネスも様子を見に来ていた。
「しばらくここにいさせたらどうかな? 野盗の来る森に若い娘を1人で置いとけないだろう」
「そうね、そのつもりよ」アンナは微笑んで言った。
 フィデリスは小声で寝言を言い、どこかノスタルジックな歌を口ずさんでいた。兄妹は顔を見合わせた。何を言っているか解らない。本当にエルフ語かも、と冗談を言い合ったが、見るとフィデリスの頬には涙が伝っていた。
「可哀想に、テンが殺されてよほど悲しかったんだな」
 アンナは毛皮の入った箱をベッドの下に入れ、囁いた。
「元気になったら、一緒にテンを埋めてあげましょうね、フィデリス」
 そしてアンナが冷たい手を毛布に入れてやったとき、フィデリスは眠ったまま、指輪のない彼女の手を柔らかく握り返した。