Dark magnolia

 頭痛はいつも予兆もなく起きる。今日も机の傍に寝ていた山猫のミンレイが不安げに私を見上げた。これは私の体中が機械仕掛けだから時々起きる激痛で、薬も効かず、ただ過ぎ去るのを待つしかない。私は椅子に寄りそうミンレイに手を伸ばした。彼女の獣らしい臭いをかぐと、私はなぜだか幸福だった子供時代を思い出すのだ。ミンレイはざらつく舌で私の手を静かに舐めた。

 私は玄城近くの平原の生まれだと親方は言っていた。一歳半のとき、両親にやむをえない事情があって、見世物小屋の親方が引き取った。そして小屋の仲間は、小さな新入りを暖かく迎え、とても大事にし、無学ながら自分たちが知ることはすべて惜しみなく教えこもうとした。
 その後数年で私が身につけたのは、いくつかの地方の言語と、獣の慣らし方と関節のはずし方、それに高い場所でのさまざまなアクロバット技術だった。親方は、私が恩返しのつもりで敢えて危険な技に挑戦しているのではないかと心配していたようだが、そんなことはなかった。命綱なしでポールの天辺に立ち、観客の喝采を得ることが純粋に快感だったのである。
 ポールを数本立てて次々と飛びつき、足だけを絡めながら踊る技は評判を呼び、寒々とした枝に咲く花のようだと評された。それから私はマグノリアと呼ばれることになった。仲間は私ばかりが脚光を浴びてもそれを喜び、ねたむことはなかった。おそらく私は一座共通の妹か娘のような存在だったのだと思う。私も彼等が大好きだった。この見世物小屋の周囲しか知らなかったけれど、粗末なテントに囲まれたその世界は、私にとっての素晴らしい宇宙だったのだ。

 ある年の夏、見世物小屋は砂漠を越え、西の町々を回った。しかし親方がリブロフでたちの悪い風邪を引き、船の中でとうとう寝ついてしまった。仲間と交代で看病したが親方は弱る一方で、ピドナの郊外で医者にみせたとき、砂漠の熱病と診断された。薬はあるにはあるがとてつもなく高価で、薬代を払ったら宿代も払えなくなるくらいだった。もし薬を手に入れても、そのあと野ざらしになるのだ。
「マグノリア」と、親方は手を伸ばして私を呼んだ。もう東での名で私を呼ぶ者はいなかったし、私もこれで十分だと思っていたから、いつもどおり、親方の傍に座った。
「どうしたの、何か飲みたい?」私はつとめて笑顔を作りながらテーブルにある水差しを取ろうとした。でも親方は首を振り、話しておくことがあると言った。
「どうしても、話しておきたい」と、親方は繰り返した。「お前の両親というのは、貧しくてやむを得ずお前を手放したと言ってきたが」
 私はどきりとした。こんなことを言うのは、親方が死を意識している証拠だと思ったのだ。
「そうではなくて、お前は玄城のワン家、有力者の血筋だ。そして父方は、内乱があり失脚したピドナの軍人……。鏡を見ろ、マギー。黒檀のような美しい髪、深い針葉樹の森のような緑の瞳、白磁さながらの白い肌。いくら下賎な暮らしの中で育っても、生来の資質は隠しようもない。お前は、本来ならこんな……見世物小屋で危険な技を披露する必要はない。好きなときに、本来いるべき場所へ帰ってもいいんだ」
「そんなこと言わないでよ!」私は叫んだ。そんな話、聞きたくもなかった。「実の両親なんかとっくにどうでもいい他人だわ! ねえ、もっと別の技を考えるから、お願いだから私を小屋から追い出さないで。私にはここが家で、親方が父さんなんだもの!」
「マギー、お前は本当にいい子だよ」親方は弱々しく微笑んだ。「だからな、幸福になって貰いたいんだよ」
「もう! 病気のせいでそんな辛気臭いつまんない考えを起こすのよ」
 私は椅子から立ちあがって言った。この病気を治す、特別な、偉いお医者さまを連れてこようと思った。
 私のその願いは翌日に現実のものとなった。ピドナで小屋を見たという貴族が、お城の姫君のために招くというのである。私一人が馬車に乗せられたので仲間は不安がったが、私はがっちりと前金を貰っていたのでそれを薬代にと渡して納得させた。
 馬車は白樺の森を抜け、別世界のような広く堅固な城へと到着した。私は引っ立てられるように城の広間へと案内され、玉座に座る二人の人物を前にお辞儀をした。老人の方が言った。
「マグノリアと申すのはそなたじゃな。ここにいる姫と年もそう変わらないようだが、噂に違わぬよう、見事な技を見せてみなさい。褒美は好きなだけとらす」
「はっ」
 私はさらに低く頭を下げて答えた。広間の後ろの扉が開き、そこにロープとポールが用意されていた。私は楽団の演奏に合わせてロープを登り、ポールに飛び移った。玉座にいる姫の姿がそこからはよく見えた。私が触れたこともないであろうきれいなブルーの絹のドレスを着て、神経質そうな不憫そうな顔で私を見守っている。
 私はそんなに気の毒な娘に見えるかしら? でもあなたがこんな城にいるからと、私よりよい人生を送っているとは断言できないでしょ? 
 もし運命が狂っていたなら、今頃東の有力者の娘としてこの姫と対等に話をしたのかも知れないと思うのは意外に気分が良かった。おかげで臆することなく技に集中できる。ポールから真横に弾み、次のポールへ、円を描いて、さらに上へ。ここから先は即興だ。ロープを巻きつけ、反動で回転し始める。
天井スレスレまで上り詰め、そこから高速で回転し、ロープが終ったところで宙を跳び、玉座の手前に降り立った。トン、と絨毯に軽く音がしたが、体は少しもぶれずにすんだ。さあ、笑顔だ。しんとして、すぐに拍手が沸き起こった。
「見事である! さあ褒美を」
 金貨のつまった袋が用意された。これだけのお金があれば、一座は解散しなくて済む。私は幾重にも礼を述べ、また案内の者とともに広間を後にした。
 しかし、来た道順と違う。不審に思って声をかけようとしたとき、背後に数人の衛兵が来て、いきなり両腕を捕らえた。袋の金貨がこぼれて石の廊下で音を立てた。
「返して、あれは父さんの薬代なの!」叫んだと同時に頭を殴られた。

 目を開けると視界はまず色がなく、ひどく頭痛がして吐き気があった。目が慣れてくると視界に色がついた。墳墓のような暗い一室で狭い寝台に寝ている私は、広間で芸を披露した衣装のままで、両腕には数本の管がつけられ、足にはぴりぴりと電流が流れていた。意識がない間に何が起きたか、正確なことはわからないが、想像を絶するおぞましいことがなされたとは判った。音声は、かなり遠くの雑音まで明瞭に聞こえ、白衣を着た数人の学者らしき男たちが話し合う内容が聞き取れた。
「もう4日だが、計器の不安定さが抜けない……失敗です」
「適当に説明して一座に返したらどうかな?」
「いや、それは無謀だ、ねずみの二の舞になる」
「ずば抜けた運動能力くらいで、兵器の実験台にするからこんなことに……」
 私は眠った振りをしながら一本ずつ管を外し、かれらの背後でそっと起き上がった。気配で一番近くにいた男が振りかえったが、それより素早く首をぐいと締めた。
「私に何をしたか、説明して」声が遠くで聞こえる。頭にも、耳にも何かされたのだ。
「落ちつくんだ、その人を傷つけてはいけないよ」
「難しいわね、私は兵器でしかも失敗作なのでしょ?」
 憎しみがこみ上げてきて、腕に力が入った。――必要以上の凄まじい力が。
 ゴキッと音がして捕らえた男の首が折れた。他の学者たちが恐怖で真っ青になり、急いで廊下へ出て呼び鈴を鳴らす。私は金貨の袋を鷲づかみにしてから、わずかに光が差す前方の小部屋へと走った。足は、もはや獣になったように苦もなく障害物を飛び越える。だがすぐに衛兵が飛びこんできて、ボウガンを私に向けた。逃げ場なし。
 ビシッ! 
 矢は私の右腕に突き刺さった。しかし痛みはなく、かすり傷程度の血しか流れない。私は矢の雨の中をかいくぐり、教会の天井ほどの高さの窓枠へとジャンプした。拳で軽く叩くと鉄製の格子がわけもなく飛び散った。私はそこへ飛びこみ――はるか下の芝生めがけて飛び降りた。トン、と絨毯に響く程度の音がし体は少しもぶれなかったが、飛びこんだ茂みの中でがくがくと全身が震えた。私はあの高さから飛び降りて、もう人間ではなくなったことを自分自身に証明してしまったのだった。  
 
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