Dark magnolia<続き>

 町へ出たが追っ手は来なかった。小さな市が立っていたのでそこで目立たない服とブーツを手に入れ、歩いてピドナの宿の近くまで行った。街道の脇に墓地があって、近づいてみるとそこに一座が揃ってうなだれている姿が見えた。薬は買えたのに親方は助からず、今日は葬式があっていたのだ。
 私は手持ちのオーラムから自分用に数枚を抜き取り、残りの入った袋を衣装で縛って近くの草地に置いた。あの城で学者の一人を絞め殺し、逃走したのだからいつまでも同じ場所にはいられない。まして、仲間のもとへ戻っても迷惑になると思った。親方は死んで見世物小屋は終り、空中の踊り子マグノリアもまたこの地で散った。あの金はマギーの最後の花弁と思ってくれればいい。
 私は一言も声をかけずにピドナから船に乗った。
 その後、気がつくと東に向かうキャラバンに同乗し、結局玄城へ来ていた。名家としてのワン家はすぐに見つかったが、そこで私は何かを望んだわけでもない。ただ、そこに自分がいたかも知れない家族の幻影を、ちらとでも見たかったのだと思う。
 けれども、そっと覗いたワン家では、家長らしき老人が膝に孫息子を乗せ、いかにも幸福そうに笑っていた。豪奢な家具、ずらりと控える使用人たち。老人の向かいの席には、黒髪の美しい女性がいて、やはり幸福そうに笑っていた。
「この子が生まれてわしは寿命が延びたとつくづく感じたぞ。なあ、……あの不吉な西方人の顔をした娘を手放して正解だったじゃろう。何せ、あの子の父親は失脚した挙句に魔物の世界に飲まれた男じゃぞ」
「まあ父上、思い出したくもないわ。わたくしはあれからすぐ再婚したのですし、この子も2歳。今頃あの男やミンレイのことを持ち出さないでくださいませ」
「うむ、そうだな」老人は子供の頭をなでながらふと窓の方を向く。「どうして思い出したかな、もうとうに野垂れ死にしたような輩のことなど……」
 老人はまだ長々と父の悪口を言っていたが、私はもう聞いてはいなかった。要するに老人にしてみれば、孫娘ワン・ミンレイは生まれながらに敗者であり、日陰者であり、魔物でさえあったのである。
 夕方で、玄城の空には黒い雲が垂れ込め、誰かが「雨になった」と言うのが聞こえた。見上げると、大粒の雨が顔を打ち付けてきた。ザアー……。広場の石畳に雨が叩きつけ、一帯はたちまち飛沫で白く霞んだが、私はそれでも構わずに空を見上げて立ちすくんでいた。これほど体中が痛み、悲しいときに泣くことができない自分に驚いていたのだった。そうして周囲に人がいなくなったと思ったとき、スッと誰かが傘を差し掛けてきた。驚いて見るとごく若い武人が立っていた。
「これはすぐには止みますまい、どこかへ入らないと風邪を引きますよ」
 彼はそう言い、私に傘を握らせてから、自分は濡れながら走って建物の角を曲がって消えた。

 その夜のうちに、有力者ワン家で騒ぎがあった。窓が風で音を立てるので召使が居間に入っていくと、家長の老人は首を折られて、自慢だった虎の毛皮の上で事切れており、すぐ傍で家長の娘が半狂乱で、犯人はよそものの女だと叫んでいた。
 なぜあのとき私は母の首もへし折らなかったのか自分でも不思議だ。彼女は15歳の実の娘のことを、そうも憎々しげに呼んだというのに。
 私はすぐに西へととって返した。興味本意でかつて魔王を奉ったという洞窟に足を運んでみたが、野盗が巣食っているだけだった。すごんで来た手下を捻り上げ、頭目を半殺しの目に遭わせて脅しつけ、私は奴ら全員を手下に持つことになった。次には、野盗と通じていた商人が揉み手で部下になりたいと言ってきた。それから数年。国のひとつやふたつは動かせるであろう莫大な金が、あちこちから流入してくるようになった。手下は世界中に散らばり、中には貴族もいる。
 けれどそうして力を得るほどに、この世界に対する私の幻滅は深まっていく。小屋で芸を見せ、わずかな小銭を手にしたときのあの達成感は何だったのだろう。薬代くらいで深刻に苦悩したあの宿命的な数日は何だったのだろう!
 暴力と汚れた金で、私はこの世界の突端まで登りきれそうな気がする。たまに世界は破滅に向かっているとも聞くが、それが事実ならばアクロバットのポールが頼りなく揺れるのと同じで、これからまた復讐を目指す私にはむしろちょうどいいバランスというものだ。

 先日、ピドナで任務をしくじった刺客を、私は自分で口封じしに行った。拘束された場所へは高い城門を飛び越えて入り、一分くらいで仕事を終えた。門を出てきたところに見事な庭園があり、通りすがりを装って綺麗ですねと言ってやると、若い将兵が微笑んで挨拶して行った。
 うわべを取り繕うのはこうも容易い。けれど、二度三度と人を殺した手はいくら洗っても血がこびりつき、頭上には常に灰色の雲と闇が広がっている。仮にこの冷たく止まない雨に傘が差し出されることがあるとすれば、それは紛れもなく死だ。機能停止ではなく、命の終りとしての本物の死だ。
 今、私の髪は親方が褒めてくれた黒檀の黒ではなく、見捨てられた裸の枝に咲くマグノリアの、生々しく暗い赤に染めてある。  
 
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