think gold

 もう長い間、ベルヌイは北限の海を眺めつづけている。眺めるといえば聞こえはいいが、ベルヌイは頭から氷河に突き刺さって、もがいても決して抜けないのだ。そして長い間朽ちることなく最初と同じに突き刺さっているのは、彼がそもそも黄金でできた馬の像だからだった。
 どうしてここに閉じ込められたのかはほとんど忘れてしまった。ただ、恐ろしい戦いがあって、彼と仲間は負けそうだった。かんじんな時に、体が重いベルヌイは活躍できなかった。ベルヌイに乗っていた赤毛の娘が落ち、そこへ敵が……。
 そんな胸が苦しくなる記憶が時々甦る。泣きたくなるけれど、目も口も氷にふさがれて、涙をこぼす自由さえ彼にはなかった。
 視界に入るのは海と氷だけ。その狭い青と白の世界に、夜がきて、ブリザードがきて、たまに日が照る。でもここに閉じ込められて以来、ベルヌイは白夜の夏が大好きだ。夏の間だけ、ここで繁殖をするためにウィルミントンの方から水鳥が渡ってくる。ベルヌイは岩と同じ扱いをされて、氷上に出ている両後ろ足のかかとに草を積み上げられる。あったかいと思ったら、メスの鳥が卵を孵しているし、しばらくするとヒナの声が賑やかに聞こえる。天敵のいないこの場所では、嵐で巣から叩き落されない限りヒナは元気に成長し、秋になる前にベルヌイのかかとから飛び立っていくのだ。
 しかしその姿は空にあり、ベルヌイには見えない。それでも気性の優しいベルヌイは、心の中だけでかれらに「また会おうね」と言う。

 あるとき、まだ冬だというのに冒険者数人が近くを通過していった。すぐに氷湖のあたりですさまじい音がして、ベルヌイが刺さる氷がほんのちょっとだけぐらついた。体は突き刺さったままだが頭が少し楽になり、口元が自由になった。声が出て、まばたきができるようになった。
 そしてベルヌイに最初に話しかけた相手は、氷湖から飛んできた小さなブラックドラゴンだった。
「お前さんもやつらにやられたのかい? 災難だね」と、黒いドラゴンは翼を手入れしながらベルヌイに言った。
 声をかけられて、ベルヌイは驚いた。今まで彼を岩じゃないと思った生物はいなかったからだ。
「えっと、あのう、やつらって?」
「人間だよ。とんでもない人間だがね。氷湖の主と勝負して倒しちまうし、その後、氷の剣を抜いて行ったぜ」
「氷の剣って?」
「お前さんは『それなあに』屋だね。まあいいや、随分昔になるが、破壊者といわれる神と互角に戦った勇者のうちに、海神に仕えた黒い竜がいた。その勇敢なる竜の愛用の武器は長く鋭い矛だ。破壊神は追い詰められたとき、その矛を折って空に放り投げた。その破片が永久凍土に突き刺ささり、後に氷の剣となったのよ。どうだ、ためになる話だろう」
 ドラゴンは得意そうに話をした。同じ黒い竜の伝説なので自分のことのように自慢らしい。
「……ああ、その竜はきっと、僕の仲間だ」と、ベルヌイは呟いた。
「仲間だあ? 何を言ってるやら、その戦いはもうとお〜い昔の話なんだぜ」
「そうか」
 ベルヌイはこのときはじめて、自分がどれくらい氷に突き刺さったままなのかを知った。役に立てなかった悲しみと、身動きできない悔しさと、仲間の話を聞いた懐かしさで、ベルヌイは涙が溢れてきた。涙は氷のわずかな隙間を伝って、水晶のような海へと流れていく。
 ドラゴンは氷柱の上に立って、翼をバタバタさせた。
「おい、俺様の話に感動したくらいでそんなに泣くなよ。どうかしたらそこから出られるかも知れねえだろうが」
「無理だよ。僕は黄金でできている重すぎる駄馬なんだ。突き刺さったら最後、永久に動けっこない」
 ドラゴンは片側の眉だけ上げて、氷を透かしてベルヌイの顔をのぞきこみ、叫んだ。
「お前、馬だったのか!」
 このドラゴンは、馬は竜の親類だと根拠なく信じていたので、お人よしぶりを発揮して、ベルヌイに体の揺り動かし方を教え始めた。本当は教えるほどの知識はないのだが、案外根気のある、もしくは本当に暇なこのドラゴンは、冬中練習につきあってくれた。
 そうしていよいよこの地を去るという日、ドラゴンは師匠らしく偉そうに左右に歩き回りつつ、こう語った。
「今に氷が周辺から溶けてくる。もう春だから、猟師を避けて俺様は退散するが、お前は揺らす練習を続けること。重すぎる駄馬じゃなくて天を駆ける駿馬だと信じること、わかったか」
「あー、でも僕、翼はないよ?」
「ばっきゃろう。翼は心に生えてくるもんだ。もし本物の黄金でできてるんだったら、その思いも金色に輝くものじゃなきゃならんのだ」
「うん、わかった……」ベルヌイは目をパチクリさせて言った。
「ふむ、わかったならよし」
 ドラゴンは今にも飛び立ってしまいそうだった。ベルヌイは少し寂しくなってこう尋ねた。
「あの、君の名前は?」
「ブラックドラゴンのブラドン様よ。お前は?」
 わかりやすい名前の相手に、ベルヌイは笑顔で答えた。
「ベルヌイ。信じ、続ける、っていう意味」
「ふふん、その名の通りにやってみるんだな。あばよ、ベルヌイ」ブラドンは翼を広げた。
「うん、また会おうよ、ブラドン」
 顔を一番上に上がるだけ上げると、ブラドンが飛んでいく早春の空がわずかながら視界に入った。
 あんなふうに飛びたい、とベルヌイは心底思った。そして氷の中で体を揺らしてみると、そのいまいましい枷が今にも折れるような気がして来た。
 それから春が過ぎ夏が終り、また冬が訪れても、ベルヌイの決意は変わらなかった。
――僕は飛びたいんだ、飛べると信じるんだ、天を駆ける馬になるんだ、そしてこの先何千年かかろうとも、絶対にあいつにまた戦いを挑むんだ――!

 それから20年ほど経った年の春、氷の奥の方でピキリと微かな音がして、ベルヌイは動きを止めた。再び静寂が戻ってきたと思われたとき、その小さな亀裂のほうから女性の声が聞こえてきた。威厳があるが若く凛とした声が、ベルヌイに向かって話しかける。
「黄金の馬ベルヌイよ、生命なき像から馬になったそなたなら、その純粋な思いを信じることにより、天駆ける神馬にもなれよう。ただし、そうなるにはある人物との遭遇を待たねばならぬ。黄金の信念をその身に秘めた特別な人間が、ここを訪れるそのときを」
「それは、それは、いつなんですか?」ベルヌイは叫ぶように言った。
「次の秋」
 声はそう答えて風の中へ消えた。

Way out