music of lapis lazuli
玄城の北方、竜の峰と呼ばれる霧の山に、険しい山道が途切れて絶壁を見下ろす場所がある。その山道は幾重にも折れ曲がった、心細い桟道で下界に通じているが、余りにも濃い霧に覆われ、またその霧が晴れることは滅多にないので、人がこの頂にやってくることはまずなかった。けれどもその絶壁から西を眺めると、霧がわずかに途切れただけの隙間からも、遠く砂漠を越えて、はるか西の平原までが見渡せるのであった。
その日の朝方、絶壁の手前には笛を握った女が立っていた。彼女は小柄で、若いといえば若いが娘と呼ぶには長い年月を生きた者の風格があった。それに、所謂美女とまでは言えないが、露を含んだような美しい黒髪から覗く顔は見るからに聡明そうである。彼女は西を見詰め、悲しいのに笑おうとしているかのような表情をしていた。
風が黒雲をせわしく押しやり、彼女の髪を荒々しくなびかせた。そうして強い風に思わず目を閉じると、その瞬間にふわりと桃の香りがして、顔を上げたときには傍に弓使いが座りこんでいた。
弓使いは笛の女とほぼ同年の淡い桃色の髪をした若い女である。笛の女が夕の空とすれば、こちらは夜明けの風情。同年でも年長者の威厳はなく、かわりにはつらつとした若さがストイックな美貌を引きたてている。また、細身の体にあった軽量の鎧は肩当てに鳳凰の彫刻が施され、女性用らしく優美な作りであった。けれども戦いから戻った彼女は満身創痍で、失血により白い頬は透けるほど青ざめていた。
「薬草は泉に置いてある。まずはそのほこりまみれの鎧を脱いでくるのだな」
笛の女は愛想もなく親友の弓使いに言った。弓使いは顔を上げてにやりとし、
「ったく、重傷者を見ていきなりそれ? もうすこし出迎え方があると思うんだけどね」
「私はこの山を下りることがない。よって口のききかたを知らなくても困ることはない」
笛の女はそう言ったが、弓使いの傷が重いと見て取って、丁寧に鎧を脱がせた。全身に血まみれの石屑が貼りついている。強力な石化の術を浴びたせいで、彼女の全身は深刻な火傷を負ったのと同じ状態だった。弓使いは絹の衣装だけになってほっとしたのか、言葉が途切れ、うつらうつらしはじめた。
「酔姫」笛の女は相変わらずの調子で言った。
「うん……?」
「眠ってはならん」
「だよね……眠っちゃやばい……」
酔姫と呼ばれた若い弓使いはそう言って立ちあがろうとした。しかし、足は重く、腕は言うことを聞かない。風がまた吹きつけ、結っていた彼女の髪がはらりとほどけた。
「宵」酔姫は親友を呼んだ。「どうやら……限界らしいから、泉の脇まで連れていって……」
笛の女は頷きもせず、顔色も変えず、酔姫の腕を自分の肩にかけさせ持ち上げた。酔姫は長身といえる体格だが、抱えると羽根のように軽く持ちあがる。宵は黙って山道を奥へと戻り、岩の間を通り、背の低い野生のツツジの群生を抜けて、目を見張るような緑の苔に覆われた泉に辿りついた。尾根の陰になっているので、そこは日がまださざず空気がひえ冷えとしていた。宵は横になった酔姫に自分の外套を着せ掛けたが、酔姫はすくってやった水を一口飲むので精一杯だった。
「宵、あたしはこれから少し休むことにする。破壊神が来ない間の一眠りよ」
宵は傍に座り、何も言わない。酔姫は続けた。
「そうだ、昨夜だったか、これが最後かもと思って星を見てたのよ。それで面白いものが見えて、あんたに教えようと……」
酔姫は咳き込んだ。苔の上に鮮血が散った。
「そんなことに気をとられてそのざまか」
「言ってくれるじゃない」
酔姫は軽く笑った。悪態をつく声さえも、宵のは見事に音楽的である。一息置いて、酔姫は朝焼けの空に向かい白い息を吐く。「あんたはこれまで一度も山を出ていない。でも、あたしが眠りこんだらもう残らないで、ここを下りるのよ」
「そうはいかぬだろう。お前に楽の音をきかせずにいて、悪竜になられても困る」
「ならない」酔姫は微笑して首を振った。「悪竜になろうにも、この峰には美しい音楽が満ちてるもの。体の内に音楽を持ち、美しい調べに傾けられる耳を持ちさえすれば誰でも、その心を邪なものに明渡すことはないわ。それに、天空で雷雲に囲まれているとき、荒地で死闘を続けているとき、いつも聞こえていたわよ、この峰であんたが奏でる、最高の弦の調べ、透き通った笛の音がね」
酔姫はその音を思い浮かべているのか、気持ち良さそうに目を細めて言葉を切る。
宵は左手に持った笛を握り締めた。この笛はおそろいで一緒に作ったものだった。この山よりもっと険しい、もっと霧の深い場所で、2人は最高の笛になるという伝説の木を見つけたのだった。笛は酔姫がうまく、弦は宵の得意とするところ。調子が出てくると、2人は即興で詞を連ね、至高の歌曲を山々に向かい披露したものだ。
酔姫は、無意識に差し出された宵の手を握った。
「星は告げてるわ、あんたは、人間の男と相愛になると。それじゃあ、ねえ、下界に下りなきゃ、出会うことだってできないでしょ?」
「馬鹿、そんなどうでもいい――」
「宵藍」酔姫は優しく親友を呼んで制した。「ここには誰もいなくなる。残れば退屈なだけよ。それに案外、……人間にも面白いのがいるかもよ」
酔姫はそう言ったきり目を閉じた。
やがて、宵は座ったまま、即興で笛を奏でた。
それは暫しの別れの悲しみと決意を込めた調べとなって、深い緑の谷にこだまし、その曲が終ると、もはや身動きできない酔姫の両の目から一筋の涙がこぼれた。宵は傍に寄り、そっと耳打ちした。
「酔姫、眠ってる間に私は笛でお前を抜くぞ」
酔姫は石の眠りに落ちながら、友の挑発に口元をかすかに緩めた。
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宵藍……りらさん@Lilac Gardenのオリジナルキャラクター(しかも三国無双)を借用させていただいてます。
Way out